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前夜からの続き

第241夜から第245夜まで

第241夜 - 賃金の下方硬直性

そもそも労働市場というものは、株式市場のように一箇所で売り買いが集中し価格が決まるような機構を持っていません。せいぜい分権化された労働市場が存在するだけで、せり市場のように価格が決まるのではなく、他の人々に比較して貨幣賃金を並べようとする傾向があります。そこでは社会のなかにおける自分の賃金の相対的な位置を維持しようとする動きがみられるだけなのです。労働市場における労働者の相対的な賃金水準をもとに賃金の引き下げに抵抗したり、その引き上げに同意したりするのです。つまり労働者の社会性という経済外的な要因が、貨幣賃金に硬直的な性格をもたらすのです。
一方、雇用主側から見ても労働賃金は、あたかも新鮮な野菜や果物が売買されるように日々変動すること、そして日雇い労働者のようにそのときどきの相場で雇い入れることを好みません。雇主は慣れた労働を確保するために、また時間を掛けて熟練度を向上させるために、より安定した雇用を確保しようとします。こうして貨幣賃金の下方硬直性という現象が景気に対する下支えの役割を果たすことになります。
これは新古典派経済学のような、賃金と価格が伸縮的であるかぎり市場経済のどのような不均衡も価格と賃金を媒介とする需給の調整によって自動的に解消される、という「見えざる手」の働きとは異なる見方であります。もし新古典派のいうように自動的に解消される極限では、もしかして賃金がゼロまで下がって初めて調整されるという極端なケースさえ少なくとも理論の上では考えられることになります。「ヴィクセルの不均衡累積過程」はこのことを言っているのです。まさに自己破壊的な不均衡の累積が起こるのでした。
これに対して先に述べましたような賃金の下方硬直性が存在しますと、新古典派経済学の立場とは対照的に、賃金の硬直性こそ市場経済を安定化させているのだと言えるのであります。自由にすると不均衡が激しくなり、硬直した状態で市場は安定する、というパラドックス! ケインズがいち早く『一般理論』のなかで述べた次の言説は今なお光っています。

もし完全雇用以下になる傾向がある場合に、貨幣賃金が限りなく下落すると仮定したとすれば、・・・完全雇用以下においては、利子率がもはやそれ以上低下しなくなるか、あるいは賃金がゼロとなるまでは、どこにも安定点は存在しないであろう。貨幣的体系における価値の安定性を得るためには、われわれは実際になんらかの要因、すなわち、その要因の貨幣表示の価値が固定していないまでも、すくなくとも粘着的であるような、なんらかの要因をもたなければならない。*

*通常硬直的は rigid と表現されていますが、ケインズは粘着的 sticky と呼んでいます。

(参考:ケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論』)

第242夜 - 「見えざる手」の機能喪失

そこで岩井克人氏は、セイ法則や「見えざる手」を否定して次のように述べられています。

・・・伝統的なケインズ解釈の背後には、もし貨幣賃金がなんらかの原因で十分な伸縮性をもつようになったならば、市場経済からはあの醜い「ケインズ的」な特徴はすべて消え失せ、「見えざる手」によって支配された美しく調和のとれた新古典派的な世界が実現するという期待が横たわっている。だが、われわれは、それとまったく対立する結論に達してしまったのである。事実、貨幣賃金にいくら伸縮性をあたえたところで、新古典派的な世界は甦えりはしない。逆にそれは、一定程度の安定性をもっていたケインズ経済を、わずかの撹乱によっても恐慌やハイパー・インフレーションへと転落してしまう危険をはらんだあの不安定なヴィクセル経済に置き換えるだけである。セイの法則をうしなった貨幣経済にはもはや「見えざる手」は見あたらない。いや、まさに「見えざる手」という比喩が指し示している自由放任的な価格機構そのものが、市場経済の不安定性の原因なのである。もし、市場経済になんらかの安定性があるとしたら、それは、価格機構の全面的な展開を束縛するなんらかの「経済外的」要因の存在に起因するのである。・・・

いささか逆説的なパロディー風の岩井氏独特の文脈ですが、ヴィクセルへの造詣の深い氏ならではのケインズ解釈であると思います。

(参考:岩井克人『不均衡動学の理論』より)

第243夜 - 古典派経済学崩壊の諸要因

(1) 労働価値説の限界・・・生産費で価値が決まるという学説に限界が生じ、主観的な要素、即ち、効用概念を取り入れ始めたことが古典学派の基礎を切り崩す力となりました。
(2) 功利主義・・・ベンサムを始めとする功利主義が主観的価値学説と結んで却って古典学派に弓を引くこととなりました。
(3) 社会主義思想の台頭・・・産業化の進行につれて労使の間に新しい緊張関係が生じ、それに呼応してトムプスン、ジョン・グレイなど社会主義思想家が生まれ、その思想の基礎をリカードに置いたことからリカード派社会主義者と呼ばれました。生産物はすべて労働の所産でありながらその多くの部分が労働者に帰属せず、リカードの分配論によって地主や資本家に帰属するのは、不労所得であるから不正である、したがってリカード理論をつぶしてしまおうとする動きが出ました。
(4) J・S・ミルの後退・・・”富の分配は社会の法律と習慣に依存する”と言ってミルは、生産と分配の問題を切り離してしまったほか、分配理論のひとつの大きな礎石であった賃金基金説を撤回してしまったことは自ら 破産宣告を行ったようなものでした。
(5) 数学的教養の必要性・・・クールノー(1838)など微積分の知識を経済問題の分析に応用し始め、ジェヴォンズにも引き継がれました。
(6) 歴史学派の興隆・・・古典学派が自然法則とみなされるのに対し、歴史家たちは鋭い批判を向けたことです。

以上の諸批判を代表するのが、ジェヴォンズの『経済学の理論』(1871年)でした。彼は古典学派の巨匠リカードを以下のように痛烈に批判し古典派経済学の幕を引いたのでした。

窮極において真の経済学体系が樹立された暁には、かの有能ではあるが思想の誤った男ディヴィッド・リカードォが経済科学の車輪を誤った軌道に外らしたことが判明するであろう。

けれどもそのジェヴォンズがいわゆる近代経済学の玉座に君臨したとはいえません。それから約20年後の1890年に大著『経済学原理』を著したマーシャルを待たねばならなかったのでした。

(R.ケーネカンプ 丸山徹著『ジェヴォンズ評伝』を参考にしました。)

第244夜 - 奢侈が資本主義を産み落とす

ヴェルナー・ゾンバルトという学者は、一風変わった題名の書物を著しています。1922年に刊行された『恋愛と贅沢と資本主義』がそれです。全部を紹介することは到底叶いませんが、ところどころつまみ食いをすると次のとおりです。
まず第1章は、新しい社会。ここではイギリスの紳士社会(ジェントリー)が、本来は貴族でないのに一種の位の低い貴族として族生してきたことをやや皮肉まじりに語っています。ジェントリーの最上層に位するのはナイトなのですが、そのナイトの位階が買えるようになったのはジェームズ一世が1611年にこのならわしを導入したからだとされます。気前よく金を払ったおかげでナイトになった者は、旧来のナイトよりも上席を占めるようになり貴族についで偉いということになっていたそうです。昔なら軽蔑されていたのがいまや富裕になった市民が貴族に昇格したのだとゾンバルトは指摘しています。
少し飛ばして第4章は、フランスのポンパドゥル夫人のこと。彼女の趣味のおもむくままに宮廷の全生活の支配者となった、すごい女性でした。彼女は、アンシャン・レジームの文化面すべての代表者であったが、とりわけ趣味と外面的な生活を形成するうえでの代表者でした。夫人は自ら意のままに経済生活を動かそうとしました。
次いで第5章は、「奢侈からの資本主義の誕生」となっています。そして著者は奢侈を通じて資本主義がうながされていったことを主張します。ですから経済的進歩主義を称える者はすべて、奢侈をけっこうなことであると見ています。経済的な進歩が奢侈を伴ったのではなく、奢侈が工業を興し資本主義発展の源であったのです。ゾンバルトは言います。「数々の工業は、それが奢侈工業であったがために資本主義にくみ入れられた」のだと。
また、奢侈品製造は単に金がかさむばかりでなくより多くの技巧が必要で複雑であり、多くの知識、洞察、それを作るにあたっていかに決断するかの才能も求められる。そうすると最も秀でたものだけが、その才能を武器として、経済活動を新しく指導し、組織する地位にのぼることができるのです。また奢侈品なるものは、貴族ふうなだらしなさのために支払いが滞ったりして他の生産者よりもしっかりした資本をかかえていなければなりません。富者の気分の移り変わり、流行のすたれなどもあり、必需品よりもはるかに景気の影響も受けやすく、そのためつねに融通性のきく頭のきりかえを必要とします。これが時代の流れに対応できる資本主義を生み出す土壌となっていくのです。
ちょっと待て!贅沢と資本主義の関係は判った。だがお前は題名のなかの恋愛についてちっとも触れていないではないか!すべてを覚えることは「ハテナ」には不可能で大分忘れてしまいましたが、確か最後の方でゾンバルトの次の言葉に暗示されているのではないでしょうか。

こうして、すでに眺めてきたように、非合法的恋愛の合法的な子供である奢侈は、資本主義を産み落とした。

と。

(ヴェルナー・ゾンバルト:『恋愛と贅沢と資本主義』より)

第245夜 - 市場の倫理を問う

人間は自然に任せば、”万人の万人による”戦争状態となる、と説いたのはトマス・ホッブスであり、したがって国家なしに市場経済の秩序は成り立たずと言います。これと反対に国家のない自然状態を一応の平和状態と見るのが、ジョン・ロックであります。ロックは人々が各人の所有を尊重しているからです。つまり人々が所有のルールさえきちんと認め合えば市場の秩序は予定調和的に形成されると見ているわけです。この二つの考えには、市場の平和を国家の管理に委ねるか、それとも自由に任せるか、というジレンマが潜んでいるように見えます。またこのようなジレンマには市場に対する倫理観が欠如しているようにも見られます。この点を正しく指摘したのは、やはりアダム・スミスでありました。スミスは「共感に基づく経済取引から市場倫理が生まれる」と考えたからです。スミスのいう共感とは、単なる同情ではありません。相手の状況に同情するだけではなく、相手が自分に対してどう見ているかをも想像するところに共感という他者志向の視点を持つものであります。これが「公平な観察者」を力説するスミスの考えです。このような他者志向的な市場観に立つとき市場倫理が生まれるのです。
しかし現実にはこのような理想的な市場が見られるようには思えません。せいぜいK.R.ポパーが次のような例を引いているような寛容さ程度のことが行われるのが現実でありましょう。

もし理想の民主主義を夢想するとすれば、それは、議会の候補者が誇らしげに、自分は昨年31もの過ちに気づきそのうち13訂正することができたが、自分の対立候補は、同じく13の過ちを正したとは言え、気づいた過ちはたった27しかなかった、と主張することによって票を得ることができるような民主主義であろう。そして、それが寛容のユートピアであることは言う必要もないのである。

このポパーの言は何と皮肉に聞こえるでありましょうか。

(参考: 桂木隆夫 『市場経済の哲学』より)

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