前夜からの続き

第396夜から第400夜まで

第396夜 - 政府の浪費

財政の膨大な赤字を見るにつけ、歳出の削減がかまびすしくも叫ばれています。そうしなければならないのは勿論ですが、元来政府というものは社会の最大の浪費者であり、またもっとも効率の悪い部門なのであります。かつてアダム・スミスが述べたように、「主権者の注意というものはせいぜいのところ、どういうことをすれば自分の領土の大部分をよりよく耕作するために役立つ見込みがあるか、ということのきわめて一般的で漠然とした考慮ぐらいのところ」なのです。それに比べ個人はすべからく土地、労働、あるいは資本をもっとも有利に使用しなくてはなりませんから、きわめて緻密な考慮を払おうとするのです。したがって、政府は非効率なるがゆえに、民間に委ね民間での自由競争の諸条件を維持するように務めよ、そのための政府というのが今日にも強く現れてきております。それにもかかわらず何か民間での不都合が生じると、一体政府は何をやっているのか、それは政府の問題だとすり換えて政府をやり玉に挙げるのが、新自由主義信奉者のなかにもいるのに「ハテナ」は疑問を感じています。何かあるとアダム・スミスの自由放任、自然な秩序を持ち出す人々はスミスの『国富論』のみをとらえ、『道徳感情論』にあまり注意を払っていないように思えるからであります。次夜ではその『道徳感情論』でスミスは何を訴えようとしたかを再考してみましょう。

第397夜 - アダム・スミスの倫理

スミスの『国富論』は、その前提において、経済的秩序は完全に調整されたメカニズムを想定しているのです。それが自然的秩序なのでしょう。ところが同じスミスは『道徳感情論』において、このような出発点を取っていません。むしろ『国富論』のような個人主義的な調和を問題視しています。個人を所与とし個人の衝動によって動く代わりに『道徳感情論』では、個人はあくまで社会的な存在という想定のもとに置かれている。したがって利己心も社会の利益があればこそ許されるというのでありましょう。個人がかれ自身の豊かさを増進させようと望む真の理由は、彼が隣人の是認と賞賛を欲するということにある、とスミスは説きます。このことをモロウというアメリカの学者は、こういってアダム・スミスの倫理を説くのです。

・・・それ故、利己心という動機さえ、その起源において、個人的なものではなく社会的なものである。『道徳感情論』は、社会のあらゆる個人と社会全体との間に存在する内的で有機的な関係を明らかにしているのである。

このように見てくると、『国富論』だけを読むのではなく、必ず『道徳感情論』をも併読しないと真のスミスの思想は明らかにできない、と言えましょう。

(参考:G・R・モロウ 『アダム・スミスにおける倫理と経済』)

第398夜 -いつか来た道

ホリエモンではありませんが、”暴落の前に天才がいる”と言ったのは、ジョン・K・ガルブレイスです。彼はこんな名言を残しています。

・・・金融に関する記憶は極度に短いということである。その結果、金融上の大失態があっても、それは素早く忘れられてしまう。さらにその結果として、同一またはほとんど同様の状況が再現するとーそれはほんの数年のうちに来ることもあるのだがー、それは、新しい時代の人からは、金融および経済界における輝かしい革新的な発見であるとして大喝采*を受ける。こうした新しい世代の人というものは、おおむね若い人たちであり、常に極度の自信に充ちた人たちである。人間の仕事の諸分野のうちでも金融の世界くらい、歴史というものがひどく無視されるものはほとんどない。過去の経験は、それが記憶に残っているとしても、現在のすばらしい驚異を正しく評価するだけの洞察力に欠けた人の無知な逃げ口上にすぎないといて斥けられてしまう。

なお、* 印をつけたところは、別のところでマーシャルの次の箴言も引用されています。

・・・新古典派経済学の尊敬すべき預言者アルフレッド・マーシャルは、「経済学者は喝采を受けることを何よりも恐れるべきだ」と・・・。

別に経済学者でなくても(でも竹中さんは以前は経済学者でしたからこれらのことはご存知のはず)、ホリエモンがこれらを自ら読んでいたり、誰かが指摘したりすれば、あんなライブドア・ショックは起こらなかった、すくなくとも未然に防げた、というのは無理な願いでしょうか?

(参考 ジョン・K・ガルブレイス『バブルの物語』より)

第399夜 - セルフインタレストの新解釈

セルフインタレストといえば、アダム・スミスに戻ってセルフラブとか自己愛とか利己心であるというのがもっぱらの理解です。では改めて自己愛とは何かと問われますとちょっと戸惑うところがあるのです。なぜならそれは単なるミーイズムではないからです。つまり自己愛の自己とは決して自分自身で形成されるものではありません。あくまで社会との関わりになかで、また社会的習慣のなかではぐくまれるものなのです。たとえば慣習から切り離された個人などという存在は有り得ませんね。慣習を離れて独立したかに見える市場であっても、そしてその市場に重きを置いたスミスであっても、人間というものは慣習から自由にはなれないとスミスは認めるのです。このあたりの微妙な関係を西部邁氏は以下のように結んでいます。

慣習は、人々の生活に形式を与えるという意味で、抽象化され潜在化されるけれども、依然として諸個人の性質を規定しつづける。形式としてのコンベンショナリティーつまり慣例が市場取引の形態を定める。そして自己愛もまた社会から孤立した個人の利己的なものではなかったのである。
 自己はあくまで社会的なるものとしての自己なのであった。したがって、セルフインタレストというのも、利己心というのも
「自己に関連する事柄」という意味に解さるべきものである。

(参考 西部邁 『貧困なる過剰』より。赤字は「ハテナ」による

第400夜 - 規制緩和のパラドックス

パラドックス;その1・・・規制を緩和するには実は複雑な立法を必要とし、規制するプロセスを生む。規制緩和を創出しそれを維持するためには、多くの文書と規制とが必要だ。

パラドックス:その2・・・規制緩和は産業政策と共存し、産業政策の一部とさえなり得る。規制緩和は純粋な競争モデルが想定するよりもはるかに強力な経済の主体を扱う。規制緩和には産業政策や産業哲学や司法に委ねられる。

パラドックス:その3・・・規制緩和はカルテルを育てる結果になりやすい。工業社会の古いカルテルが解体される一方、たとえば電子社会でのカルテルが音もなく形成される。

このように、規制を緩和しようとすると、必ずともいって言いぐらいに出てくるのはその反作用です。かくして規制の緩和は再規制を生む、というパラドックスが生ずるのです。規制への挑戦は明らかなことですが、競争を育成するための指導原理が必ず必要でありますのに、それが完備しているとはいえず、また実行もされていない、ということは今回のライブドア事件の教訓といえるでしょう。

(参考 A・ブレッサン『ネットワールド』より)

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