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前夜からの続き

第116夜から第120夜まで

第116夜 - あおいブドウ

欧米の経済書は、おしなべてレトリック(修辞)の使い方がとても上手いことに感心します。それに引き替え日本の経済書は概して教科書風であったり説教調であってせっかく立派なことを言っているのに堅すぎて敬遠されがちです。今回は「ハテナ博士」が気づいた二、三の巧みなレトリックをご紹介してみましょう。

最初に習った経済学の方法についてのイロハは、ある与えられた目的あるいは自分の定めた目的に対する手段の適否を決めるのが経済学であって、目的そのものは経済学の課題ではない、それは価値判断の領域に属するというものでした。

ところが人間って勝手なもの。上手く手段が見つからないと、目的が良くなかったからだと考えを変えてしまいます。このことをあるアメリカの経済学者(Elsterという人です)は、「あおいブドウ」と名付けました。つまりこういうことです。欲しいブドウに手が届かなかった狐は、あれはまだ熟していないブドウだとねたんでしまうのです。つまり、目指す満足の獲得に失敗した結果、目的そのものを変えてしまうのだと。これを選好の変化とかシフトと言います。せっかく食べたいブドウが手に入れることができなかったため、あのブドウは青くて酸っぱいよ、と自分勝手に目的を変えてしまうのです。こうして功利主義的な目的ー手段の図式に疑問が投げかけられるのです。

第117夜 -熟達したビリヤード

このレトリックはかの有名なミルトン・フリードマンによって合理的計算あるいは行動の例として提示されました。熟達したビリヤードの競技者は、複雑な計算をしているのではない。が、「あたかも、玉の動きに最適な方向を与える複雑な数学公式を知っており、盤上の玉の位置やそれら相互の角度を正確に目測し、公式にあてはめて素早く計算をおこない、そのうえで、玉を公式が指示するとおりの方向へ動かすことができるかのように」行動する、というものです。つまりフリードマンは、迅速な合理的計算者という仮説を、それが実在するという根拠からではなく、熟達した競技者が、それと本質的に同じ結果に到達するであろうとしてこれを正当化するのです。

そうですね。経済学者のいう人間の合理的計算や行為は厳密に定義すればするほど架空の人間を存在させることになりますから、フリードマンの言うのも道理がありましょう。現実に優れた経営者でも経済学の示すような厳密な合理的計算を行っているわけではありませんね。そんな完璧なことは不可能でしょう。

第118夜 - データは過剰か?

一般には大量のデータがあればあるほど不確実なところがなくなると考えられがちです。でももう皆様方ご承知のとおり、ウェッブ上のデータは余りにも過剰です。例えばつい先日新記録を達成したイチローで検索しますと、約70万件のデータが掲載されています(もっとも小沢一郎も入っていますのでもっと絞り込む必要はありますが)。そこで必要なことは、刺激の「混沌としたジャングル」になんらかの意味を与えることによって対処しなければなりません。一般に、わたしたちは情報の過多と過少に同時に直面しているのです。そして案外意思決定にとって最も重要な情報に関しては過小であるというパラドックスに陥るのです。これがいわゆる認知理論の教えるところなのです。

第119夜 -進化論と経済学

以下はあくまで「ハテナ博士」が抱く疑問の一つで、これにはいろいろな批判がありましょうからそのつもりで読んでいただきたいのです。

ダーウィンの進化論のキーワードの一つに、「自然淘汰」という概念があります。これらの概念を経済学に応用して最近流行の経済学として「進化経済学」という研究がとみに盛んになってきています。例えば、企業は利潤の最大化を目標に行動する結果生き残る可能性が最も高い「適者」であり、そのような能力のない企業は淘汰されるのだ、というような説明を受けます。だが、その世代には確かにそう言えるにしても、そのようにして生き残った企業は次世代にも遺伝していくものでしょうか。企業にはそのような遺伝子はないはずです。生き残り得る企業はそれを支える企業組織や、一国の制度や慣習に支えられてこそ存続し得るものでありましょう。

何も経済に限らず生物学自体においても「自然淘汰」は短期に生ずるものではありません。長い過程を経て緩やかに作用するのであり、種が確立するには、その種が優越するような安定した環境がどうしても必要なのです。このことは、はるか昔の隕石落下によって突然に地球の気候を変え、高度に進化した恐竜たちを絶滅に追いやったような大変化が起これば、「自然淘汰」は中断されてしまいます。

このように進化論をみてきますと、その経済学への適用は必ずしもフィットしているようには「ハテナ」には思えません。そこで「ハテナ博士」は経済学における進化論は一つのメタファーとしての意味を持つが、それを超えるものではない、と考えるのですが、間違っているでしょうか?

第120夜 -われわれは皆死んでしまう

ここでケインズの発した有名なレトリックに触れておく必要がありましょう。古典派や新古典派の経済学が、自然の状態に落ち着く、とか長期的には均衡状態になる、とか一種の調和論を唱えたのに対して、次のような痛烈な皮肉を言っている文章が面白い。

永い間には我々は皆死んでしまう。嵐の時に、暴風雨が通り過ぎて充分時間がたてば、海は再び穏やかになるだろう、としか言わないような経済学者は、あまりにも怠惰である。

正確ではないかもしれませんが、「ハテナ」はこの始めの言葉を、' In the long run, we are all dead' と今でも覚えております。この言葉が発せられた背景には20世紀はじめの不況への処方箋をケインズが示したことであり、したがって短期的な政策を急いでいたのです。このため逆にケインズには長期理論がない、という批判も出ましたが、その後ケインズのお弟子さん達(例えばハロッド)によって成長論を取り入れたケインズの動学理論に発展しました。

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