前夜からの続き

第66夜から第70夜まで

第66夜 - 囚人のジレンマ(1)

ゲームの理論を学ぶ人にとって必ず目にとまるのが、「囚人のジレンマ」で有名な例です。ちょっとブッソウな名前ですので、題名をアレンジしたり例を替えたりしたものもありますが、ここではごく基本的な理解として、逢沢先生の著書*を参考にして説明いたしましょう。

囚人 A と B が逮捕されました。彼らは共犯者として疑われています。この2人は別々に拘留されていてお互いに連絡は取れません。

検事は2人に次のような条件を出しました。

1. 2人とも黙秘すれば、懲役1年ずつである(微罪で罰するしかないため)。         2. 2人とも自白すれば、懲役2年ずつである(罪が確定するため)。              3. 1人が自白し、1人が黙秘すれば、自白した者は釈放、黙秘した者は懲役3年。

これを次のように表に表して見ましょう。

B

A

黙秘
自白
黙秘
A : 1 年

B : 1 年

A : 3 年

B : 0 年

自白
A : 0 年

B : 3 年

A : 2 年

B : 2 年

さて、あなたが囚人 A の立場であったとしたら、あなたは「自白」と「黙秘」のどちらを選びますか、がゲーム理論の問題です。でも今夜はもう遅いし、眠くなりましたね。次の夜話で解くことにいたしましょう。

*逢沢明『ゲーム理論トレーニング』ーあなたの頭を「勝負頭脳」に切り換える)

第67夜 - 囚人のジレンマ(2)

前夜の続きです。結論から申しましょう。答えはA、Bとも自白して2年の刑に服するのが最適となるのです。もちろんA、Bとも頑固に黙秘すれば両方とも1年の刑で済みます。しかしA、Bは別々に隔離されているのでAにとってはBの行動が、BにとってはAの行動が読めないのです。例えばAが黙秘してもBが自白してしまうとAは3年の刑、反対にAが自白してBが黙秘するとAは0年の刑で済みますがBは3年の重い刑を受けます。A、Bとも相手の出方を予想しますが、どう出るかは判りませんね、ですから両人ともいっそ白状してしまえということになって双方とも2年の刑に服するのがこのゲームの結論なのです。両人とも頑として黙秘を続けるのが良い(それぞれ1年の刑で済みますから)のですがそうは問屋が卸さない、相手の出方を予想してこちらの戦略を考える、というのがゲームの理論の面白いところです。

明夜はこのことをさらに系統だてて説明いたしましょう。

第68夜 - 囚人のジレンマ(3)

前夜のおさらい。くどいようですが、整理してみましょう。話に臨場感を持たすためにAのかわりに「あなた」と呼びましょう(あなたを囚人扱いにして御免なさいね)。

1. 相手が「黙秘」した場合:
あなたが「黙秘」なら、あなたの刑は「1年」
あなたが「自白」ならあなたの刑は「0年」です。

よって「自白」のほうが有利です。

2. 相手が「自白」した場合:
あなたが「黙秘」なら、あなたの刑は「3年」
あなたが「自白」なら、あなたの刑は「2年」です。

よって「自白」のほうが有利です

このように考えると、いずれも「自白」するほうが有利ですね。相手も同様の考えをしますから、結局は両方とも「自白」することを選ぶはずですね。

だが待てよ?AもBもほんとうに「自白」が最良の選択なのでしょうか?この疑問は次の夜話に残されます。

第69夜 -囚人のジレンマ(4)

第66夜の表では、最適な選択は二人とも「黙秘」することですね(それぞれ1年の刑で済みます)。有利なはずの「自白」でも2年の刑でそれよりも短い!しかしだからといって「黙秘」を選んだら相手が「自白」してしまつと3年の刑が待ったいる?・・・・・・

これが表題にありますとおり、「ジレンマ」なのです。つまり自分は得だと思って選んだのに損だと思った選択肢の方がましだった、というジレンマなのです。

この囚人のジレンマの例は、ゲームの理論に必ずでてくる例題です。そればかりではない。ゲームの理論以外にも良く比喩として盛んに用いられている、それほど流行った例題です。

もちろんこの例題だけでゲームの理論が判ったつもりになってはいけません。次に大きな問題でしかも今一番研究されている、「ナッシュ均衡」に触れなくてはなりません。でもかなり頭が痛くなりました。しばらくゲームからお休みして話題を変えたあと、何夜かで再びお目にかかることといたしましょう。

第70夜 - ニュースと歴史

最近テレビや新聞で扱われるニュースに、「ハテナ博士」は非常に疑問を感じていると言ったら叱られるでしょうか。マスメディアの商業主義は仕方がないとしても、小さな事実を過大に報道したり、或いは事実無根であっても言論の自由の名のもとに堂々と主張してはばからぬ風潮に、マスメディアの良心の不在を感じるからです。新聞は社会の木鐸たれ、とは古今から伝わる名言であるのにそれへの自覚が失われつつあるのではないでしょうか。

ホワイト氏は『歴史の探求』のなかで、こんなことを言っています。

”・・・私の情報は重大だった。それはニュースであって歴史ではない。長年かかって、私はニュースが歴史よりどれほど危険であるかを学んだ。それは記者にとっても、記者が報ずる人びとにとっても、より危険である。”

(セオドア・ホワイト『歴史の探求』上、より)

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