畠山重保供養塔
由比ヶ浜2−14−5


若宮大路一の鳥居の南端西側の道路脇に、明徳4年(1393)銘の宝篋印塔の畠山重保供養塔と碑が建っている。この辺りは、重保邸があった場所。重保はひどい喘息で苦しんでいたといわれ、せきで困った土地の人々は「せきの神様」として供養塔にお参りをし、治るとお礼にお茶を供えたそうで、ここに六郎茶屋があったという。

碑文
畠山重保ハ重忠ノ長子ナルガ 甞テ北條時政ノ婿平賀朝雅ト忿争ス 朝雅其ノ餘怨ヲ蓄ヘ 重保父子ヲ時政ニ讒ス 時政モト重忠ガ頼朝ノ薨後其ノ遺言ニ依リ頼家ヲ保護スルヲ見テ之ヲ忌ミ 事ニ依リテ之ヲ除カント欲ス 乃チ實朝ノ命ヲ以テ兵ヲ遣シテ重保ノ邸ヲ圍ム 重保奮闘之ニ死ス 時ニ元久二年六月二十二日 此ノ地即チ其ノ邸址ナリ其ノ翌重忠亦偽リ誘ハレテ武蔵國二俣川ニ闘死ス

                  大正十一年三月建    鎌倉町青年團



畠山重忠は武蔵国(埼玉県)の豪族で、北条時政の娘(政子の妹)と結婚し、重保(しげやす)が生まれた。鎌倉幕府を開いた時、源頼朝の右腕として活躍していた武将の畠山重忠は、忠勇無双の士として名高く、頼朝の二度の上洛には、いずれも先陣を務めた。正治元年(1199)頼朝は死に際し、源頼家の後見を重忠に任せたが、息子の重保が北条時政の後妻、牧の方の娘婿である平賀朝雅と争ったりして、幕府の実権を握った北条氏にとっては邪魔な存在となっていた。北条時政は息子・義時に重保の討伐を命じたが、義時も畠山氏が北条氏の前に立ちはだかる存在として、いつかは倒す必要があった。

元久2年(1205)6月19日に、鎌倉で謀反が起こったという知らせを受けた重保は鎌倉に向かった。義時は畠山氏を倒す絶好の機会と捕らえ、鎌倉幕府御家人と共に由比ヶ浜に駆けつけ6月22日に重保を殺害した。北条時政から「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の命を受けた重忠は、二俣川(横浜市旭区)に到着した時に北条氏の軍勢と戦になり、5時間の激闘のすえ重忠は42歳という若さで討ち死にし、武蔵武士団の旗頭であった畠山氏は梶原、比企に続いて滅亡させられた。

この事件をきっかけに、政子・義時と時政の間の亀裂は決定的になり、7月、牧の方が平賀朝雅を将軍に擁立しようとした陰謀が発覚し、幕府の主導権を握った政子と義時によって時政・牧の方は伊豆に幽閉され、義時は執権に就き、平賀朝雅も8月2日京都で殺された。
平賀・比企・畠山という武蔵国の主だった者が滅んだ後、武蔵守に就任したのは義時の弟・時房で、北条氏が武蔵国を完全に支配したのである。畠山重忠の屋敷跡の石碑が八幡宮の東鳥居の所にある。


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