本蓮寺(ほんれんじ)

藤沢市片瀬3-5

日蓮宗 龍口山本蓮寺と号す

推古天皇の時代(595年)に、高麗から帰化した恵慈(えじ)の弟子となった義玄上人が開山した片瀬地区最古の寺で、弘法大師もこの寺に住んだことがあると伝わる。
壽永3年(1184)に源頼朝が再興し、真言宗弥陀山大御堂源立寿寺として将軍の祈願所となった。参道に、頼朝が江の島神社参拝の折この寺で休息をとり、門前に馬をつないだ「鎌倉殿駒繋ぎの松」の立札と切り株が残っている。源頼朝の父義朝は、平治の乱で破れ鎌倉への帰路知多半島内海で殺害されたが、文覚上人の弟子が、義朝の頭蓋骨を袋に入れ自分の首にぶら下げて持ち帰った。頼朝はこの寺で受け取り、文治元年(1185)義朝の菩提を弔うために勝長寿院を建立し、同年9月3日に源義朝と忠臣・鎌田正清の首を埋葬したという。

日蓮上人が佐渡の流刑の途中この寺に宿泊させられ、その後この寺は日蓮宗に改宗、本蓮寺と改められた。日蓮が龍ノ口にて第四回の法難を免れた(佐渡に流罪となった)刑場跡に建てられた龍口寺の輪番八ヶ寺(片瀬常立寺、本蓮寺、腰越本成寺、勧行寺、法源寺、東漸寺、妙典寺、本龍寺)の一つで、いずれも山号は龍口山である。今は龍口寺に住職がおり、輪番制はなくなった。


長い参道をぬけると、徳川幕府の御朱印寺であった証として、山門に「転法輪」の掲額があり、徳川家の三ッ葉葵の金の紋章が輝いている。本堂前には、葵紋の石灯籠があり、その側に宗尊親王の歌碑が建っている。


宗尊親王(1242〜74)は第八十八代後嵯峨天皇の第一皇子で、第五代執権北条時頼の建長4年(1252)に、11歳で鎌倉幕府に迎えられて、第六代将軍となった初めての皇族将軍である。文永3年(1266)7月に、謀反を企てたとの嫌疑をかけられて将軍職を追われて京に戻り、文永9年(1272)父法皇が亡くなった後に出家。2年後に33歳の若さで没したが、京へ帰される際にこの寺に寄り、その時に詠んだといわれる和歌の歌碑が建っている。

    帰り来て 又見ん事も 固瀬川
                        濁れる水の すまぬ世なれば


乳頭のたれる銀杏の古木がこの寺の歴史を感じさせる。振り返ると、本堂拝殿の軒に彫刻された日蓮像が目に入る。本堂裏の左の山の方を見上げると、宝形造の屋根に青銅の相輪、その先に塔がある。この塔は多宝塔といい、釈迦如来が祀られ、内部には檀家の位牌も祀られてあり、盆の三が日は解放されるという。なお、白色の饅頭型の胴のある建物が多宝塔と呼ばれており、それがない物は宝塔といわれるとのこと。


本蓮寺の先のT字路を右に行くと200mほどの所に小公園があり、この場所が一遍上人が行をおこなった地蔵堂の跡地で、「一遍上人地蔵堂跡」の碑がある。


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