稲村ヶ崎公園(いなむらがさき)

小動岬から七里ヶ浜の海岸を鎌倉方面に向かうと、砂浜の尽きた所に、海に突き出た小さな岬があり、そこに稲村ヶ崎公園がある。明治43年尋常小学読本唱歌として発表され、文部省唱歌となった「鎌倉」(作詞芳賀矢一・作曲不詳)の一節に、

     七里ヶ浜(しちりがはま)の磯づたい

      稲村ヶ崎(いなむらがさき)名将の

      剣(つるぎ)投ぜし古戦場

と歌われているように、ここ稲村ヶ崎は、新田義貞が剣を投じたことで有名な場所である。
鎌倉・南北朝時代の元弘2年(1332)に後醍醐天皇は鎌倉幕府に捕らえられ、隠岐島(島根県)に流されたが、後醍醐天皇は隠岐島から抜け出し新田義貞に倒幕を命じた。
新田義貞は一族を集め討幕の挙兵をして、兵を三方に分け幕府を攻めようとしたが、鎌倉は東、西、北が丘陵に囲まれ、周囲の山は七つの切り通しで堅く守られ、南は海に囲まれていた。元弘3年(1333)5月21日、夜半を利用して自ら二万余騎を率いて極楽寺に向かったが、山は嶮しく進むことは困難と判断し南の稲村ヶ崎に向かった。海には警護の船が立ち並び実に堅固な有様で、断崖が突出した稲村ヶ崎には波が押し寄せ、鎌倉への道を閉ざしていた。「太平記」の記述によると、「義貞が後醍醐天皇から授かった黄金の太刀を海に投げ入れ、龍神に祈願を込めたところたちまち潮がひき稲村ヶ崎の二十丁が砂浜となり、矢を射ようと構えていた兵船は引く潮に乗って遥か沖に流された‥‥」とある。
義貞軍は一挙に進撃し、東勝寺へ逃れた北条高時ら一門は自害し、幕府は滅亡した。

公園の入り口に、下記の碑が建っている。

 明治天皇御製 新田義貞
 投げ入れし 剣の光あらわれて 千尋の海の くがとなりぬる

稲村ガ崎 新田義貞徒渉伝説地の石碑
今ヲ距ル五百八十四年ノ昔 元弘三年五月二十一日新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ 鎌倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ祷レリト言フハ此ノ處ナリ
                     大正六年三月建之    鎌倉町青年會

海岸寄りの広場には、ボート遭難慰霊碑が建っている。 明治43年(1910)1月23日、激しい西風の中を逗子開成中学校の生徒十数名がボートに乗り江ノ島まで漕ぎ出し、帰途に着く時に七里ヶ浜の行会川沖合いで大波に襲われボートは転覆し12名の命が失われた。

真白き富士の根 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心

と歌われた有名な悲しい詩が刻まれている。。慰霊碑のブロンズ像は抱き合ったまま発見された兄弟がモチーフになっている。




稲村ヶ崎の崖上からは、西の方に江の島が見える。七里ヶ浜から江の島に続く海岸線上には晴れた日に伊豆大島が海の彼方に浮かび、その向こうには富士山が見える景勝の場所である。(かながわ景勝50選)

1990年にサザンオールスターズの桑田佳祐が監督をした映画「稲村ジェーン」の舞台として話題となった。




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