江の島縁起によると、千四百年も前の遠い昔、鎌倉の深沢山中に周りが四十里という湖があり、五頭龍が住みついて、山くずれや洪水を起こしたり田畑を埋めたり、村人を苦しめていた。ある日五頭龍に子供をいけにえに取られたことから、この地を子死越(現鎌倉市腰越)と呼んだ。一説には、江の島は2万年前に、沈降運動により片瀬側と離れ独立した島となったという。「絵ノ島」と書かれることもあるように、風光明媚で自然環境に恵まれている。
欽明天皇(509〜571)の時代の欽明13年(552)4月11日の夜から、海岸一帯には雲や霧がたちこめゴーゴーと地鳴りが響き渡っていた。4月12日に、天地が激しく揺れ動いた後、やがて、地鳴りも止み、村人たちもホッとしていた。その時、突然大音響とともに、海底が天までふきあげられ、その後に小さな島があらわれた。そして、左右に童子をしたがえ、天女( 弁財天 )が 紫雲(しうん)にのって、静かに島に降りてきた。すると地鳴りはおさまリ、美しい音楽がきこえ、あたりにはこの世のものとは思えない、いい香りがただよっていたそうだ。 天女の美しさに魅せられた五頭龍は結婚を申し込むが、天女に改心を迫られる。五頭龍は天女の言うとおり悪行を改め、めでたく天女と結ばれた。この天女が江の島弁財天で、五頭龍は腰越の神社に祀られている。
これが 「五頭龍(ごずりゅう)伝説」 として今に伝えられる江ノ島縁起・江の島誕生の物語である。
周囲5km、面積0.18平方km、標高61.5mの小島であるが、緑豊かな亜熱帯の照葉樹に覆われている。
弘法大師、日蓮上人、一遍上人が修行したり、北条時政が子孫繁栄を願い、鎌倉二十五坊の僧侶が雨乞いをしたと伝えられており、丹沢の大山参りとともに、信仰の場として多くの権力者や修験者がこの島を訪れている。
明治24年(1891)に初めて片瀬浜から江の島まで川口村村営の橋が架けられ、それ以前は人足に背負ってもらったり、潮が満ちると舟で渡っていたと伝わるが、モースの日記「日本その日その日」によると 明治10年に「島に懸かっている橋が台風で崩れかけて居るところを渡る‥‥。」とある。
関東大震災による津波で流出した橋はその後架け直され、昭和24年(1949)に6ヶ月かけて鉄筋の橋桁に木造の橋を造った。 昭和38年に初めて渡橋料が無料になったが、昭和39年(1964)の東京オリンピックで、江の島でヨット競技が開催されることになり、ヨットハーバーが建設に合わせて、鉄筋コンクリート製の「江ノ島大橋」と呼ばれる自動車専用橋と、「江ノ島弁天橋」という歩道橋が完成した。

江の島への入島を歓迎してくれる弁天橋の海中部分の入り口に、石碑と日時計が建っている。日時計は、藤沢ライオンズクラブが結成15周年を記念して平成元年に建立した。
弁天橋を真っ直ぐに渡りきると、江島神社の参道入り口に大きな掲額のある青銅の鳥居が建っている。
1.青銅の鳥居

延享4年(1747)2月に江戸商人達が寄進したものが、文政 4年(1821)に再建された高さ5.52mの青銅製で、市指定の文化財になっている。「江の島大明神」の掲額があり、両柱には江戸時代の数多くの寄進者名が彫ってある。奉納者は江戸を中心に八王子、上総、常陸など関東各地の250名に及んでおり、当時の江ノ島神社信仰の広さを偲ばせている。
最初は、「大弁財天」と彫られていたが、明治時代の宗教改革で、土御門院の宸筆を模して[江之島大明神」に変わったという。
第一の鳥居は、広重の画に出ている東海道から江の島に入る藤沢の遊行寺傍、第二の鳥居は江ノ島渡る前の洲鼻通にあったが、新編相模国風土記稿に「島口の鳥居」と記されている鳥居はこの青銅の第三の鳥居である。
青銅の鳥居を抜けて参道に入ると、「島に弁天、旅館は恵比壽」といわれ、江戸時代初期創業で、伊藤博文・桂小五郎・尾上菊五郎・吉右衛門・梅幸などが定宿としていたという恵比壽屋があり賑やかな通りの中程右手に岩本楼がある。ここは、江の島・三宮の総別当職を勤めた「岩本坊」、のちに「岩本院」となった由緒ある院があったところで、江戸時代には将軍、大名の宿泊所として栄えた。文久2年、「岩本院の稚児あがり、普段着なれし振袖から、髷も島田に由比ヶ浜」の台詞(せりふ)で有名な河竹黙阿弥の「白浪五人男」の舞台として取り上げられたが、歌舞伎の白浪五人男に登場する「弁天小僧」は、岩本院の稚児がモデルであるとも言われ、芝居、講談、小説など、数々の名作に岩本院の名は取り上げられている。現在の岩本楼には「江嶋縁起」の写本や国有形文化財の「ステンドグラス岩本楼ローマ風呂」、岩屋を模した洞窟風呂などあって格式の高い宿として有名である。
土産物店が立ち並んでいる参道を上って行くと朱色の鳥居がある。鳥居をくぐり、すぐに右折して男坂を上り、右下にある階段を下ると杉山検校の墓がある。
2.杉山検校の墓

本名を杉山和一(1610〜94)といい、江戸時代の杉山流鍼術の開祖である。 伊勢国津藩士杉山権右衛門重遠の子として 生まれたが、幼児の時に失明し家を弟に譲り、江戸に出て検校山瀬琢一や入江豊明に鍼術を学んだが、性格が鈍重で生来の不器用のため破門され京都に行こうとして江の島弁財天に立ち寄った。ここで岩屋に閉じこもり技術の向上がなければこのまま死なせてほしいと弁財天に願をかけ、7日間断食祈願を行なった。満願の日に、辺津宮の坂道で福石につまずき倒れて気を失ったが、やがて夢の中で自分を呼ぶ声を聴き身体にチクリと刺すものがあって意識を取り戻した。身体を刺したものは、竹筒の端に入った松葉であった。これからヒントを得た和一は、細い管の中に銀針を入れて管を垂直に安定して針を刺すと、ツボに的確に当たることを発明した。こうして簡便な管鍼の術を考案した和一は、杉山流鍼術を開き名医と呼ばれるようになり、第四代将軍徳川家綱に引見し、貞享2年(1685)には第五代将軍綱吉の病を治したことから、禄五百石と江戸本所に宅地を与えられた。
綱吉の命で鍼治療講習所を設け門下を教育し、元禄5年(1692)に関東総録検校となり、全国の盲人を統轄していた京都の職屋敷から分離独立した。検校は、弁財天へのお礼として三重の塔を寄進したり、江戸から江の島までの道に48基の「江の島道」の道標を建てた。検校の墓前に大きな燈籠が二基建っているが、これは徳川幕府で権力を握っていた柳沢吉保の妻が、検校に難病を治してもらった礼として献上したといわれており、当時の検校の活躍が偲ばれる。紀伊国屋文左衛門を幕府に紹介したのも検校で、本所一つ目の宅地跡(墨田区千歳)は現在、江島杉山神社となっておりめづらしい点字による石碑が建っている。
朱色の鳥居まで戻り参道の階段を上ると、五頭龍伝説から竜宮城をイメージして建てられたという大きな白塗りの瑞心門がある。祭神の守護と参拝に厄災なきことを祈願して門内部の左に緑、右に青の唐獅子が描かれており、外部から魔物が進入しないよう見張っている。
(注)
中央アジアからもたらされたライオンが古代中国で幻想塔物として描かれ、密教曼荼羅の中の唐獅子が9世紀に渡来し、日本にも定着した。ライオンのようだが、伝説上の霊獣で、唐獅子が現れるのは吉事の前兆とされている。仏法のみならず邪悪なものを退け、国家鎮護を祈念する形代として唐獅子飾られるようになったといわれる。
3.江島神社
江の島内にある三つの宮「辺津宮・中津宮・奥津宮」を総称して江島神社と呼んでいる。江島神社は、滋賀県琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)神社及び安芸の宮島の厳島神社と共に「日本三大弁財天」 のひとつで、毎年6月10日に三社の分霊と神官が竹生島神社に集まって、15日まで合同の弁財天まつりが行なわれている。
@ 辺津宮

建永元年(1206)に江島神社の本社である辺津宮に源実朝が田寸津売命(たぎつひめのみこと)を祀って創建、僧良真が荘厳な社殿に遷宮したが、現在の社殿は昭和51年(1976)に改築されている。
辺津宮は、江島神社の一番下に位置しているので「下の宮」とも呼ばれている。寛政8年(1796)と翌年に奉納された二基の灯籠には、江戸の小道具屋の奉納者名が列挙されている。
奉安殿の隣には、「八坂神社」がある。現在の社殿は平成14年の改築。御祭神は、建速須佐之男命で、毎年7月中旬に真裸体の若者が対岸の腰越にある小動神社まで御輿を担いで行くことで有名な「神奈川の祭五十選」の一つである江の島天王祭が行われる。
A中津宮

仁寿3年(853)に慈覚大師によって創建されたが、元禄2年(1689)に再建され市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)が祀らている。江戸時代には「上之宮」と呼ばれていた。境内には、歌舞伎界の中村座や市村座から寄進された石塔籠などや多くの奉納石造物があり、江戸時代の商人・芸人・庶民の江の島詣での盛況の跡を伺うことができる。現在の社殿は平成8年(1996)に全面改修を行って元禄2年(1689)当時のように再現された。幣殿・拝殿の天井には花鳥画や彫刻が施されている。
正面石段の踊り場に、儒学者葛西因是(1764〜1823)の文による江の島の縁起が刻まれた文化元年(1804)建立の「江島縁起碑」がある。
B奥津宮
祭神は三人姉妹の一番上の姉の多紀理比売命(たぎりひめのみこと)で、海上交通の守護神である。相模湾を臨む岩屋に近いため、「岩屋本宮」と称されていた。天保12年(1841)に焼失したが翌年に再建され、現在の社殿は、昭和54年(1979)に屋根が修復された。 拝殿天井には、江戸後期の絵師酒井抱一(1761〜1828)が描いた「八方睨みの亀」が描かれていた。楼門の天井絵として奉納されたもので、どこから見ても亀が睨んでいるように見える原画は損傷が激しいので取り外され、代わりに野沢提翆(抱一の末流)による模写が掲げられている。なお、原画は、江島神社に保管されて、昭和46年(1791)に藤沢市 の指定文化財となっている。

境内の「龍宮大神」が祀られている真下に、岩屋の洞窟の入り口がある。
その左手に、「御岩屋道」と書いてある石碑が建っている。道の左には商店があり、稚児が淵と江の島岩屋へ向かう石段がある。
4.稚児が淵
島の南側に関東大震災で1mほど隆起した海蝕合地の稚児が淵がある。
岩礁からできた幅50mほどの海に面した台地で、背後は絶壁である。ここから眺める富士山夕焼けの美しさは、神奈川県景勝50選のひとつに数えられている。「稚児ヶ淵」の名前の由来は、建長寺の修行僧自休が江の島へ百ヶ日参詣の帰り、雪ノ下相承院の稚児白菊と出会い恋におちたが、男同士の恋がかなうわけがなく白菊はこの断崖から身を投げ、自休もそのあとを追ったという悲劇からおこっている。
5.江の島岩屋
波の浸食によって出来た自然の洞窟で、第一岩屋と第二岩屋があり、現在も侵食進行中の洞窟もある。養和2年(1182)4月5日、源頼朝が文覚上人を招き武士を引き連れ17名で岩屋の弁財天に戦勝祈願を行ったといわれ、江戸時代には弁財天を信仰する人が訪れて賑わったとの記録がある。
この洞窟に人が最初に入ったのは役の小角(えんのこずみ)という行者で、弘法大師を初め徳川家康、水戸光圀、北条早雲、明治天皇など歴史上名だたる人々が岩屋を拝するために江ノ島に来られている。後北条氏支配時には、一般人は入島すら出来なかったという。

昭和46年3月に落石の危険あるとの理由で閉鎖されたが、藤沢市が補修を行い平成5年4月に再び入窟出来るようになった。補修された岩屋はコンクリートの歩道橋が高い場所に造られ潮の満干にも関係無く、少々荒れ模様の天候でも入洞でき藤沢市が管理をしている。(入洞料は500円)
歩道橋の突き当たりにチケット売り場がある。入洞口の階段を下り、第一岩屋(152m)の横穴の入口から入ると、暗い洞内を照らすため取っ手に紙で覆われたろうそくを貰える。ろうそくの明かりで、周りを照らしながら洞窟を進んでいくと江の島ゆかりの資料や浮世絵、古地図などの展示されたギャラリーがある。奥に進むと2又に分かれる所や洞内の所々にかつて岩屋内に祀られていたさまざまな石像が置かれている。2又を左に進むと道端には多くの小石像が置かれているが、これはかつての岩屋内に置いてあった石像群である。突き当たりには二重に柵があって奥に寝婆石が祀られてある。分れ道まで戻り、右に進むと最奥部にはいくつかの家型の石造物が置いてあり黄色の石造物は滑らかに光っている。
ろうそくの取っ手を返却して第一岩屋の入り口に戻り、第二岩屋への階段を上がり、第二岩屋の入る。第一岩屋よりは小規模で、天井も最初から低く洞窟の長さも短めだが、道の両脇には発光石が並んでいて楽しめる。最奥部突き当りの金網の中に龍神が祀られてあり、時間おきにゴロゴとすごい音を出してピカピカ光る。この岩屋の先には現在も侵食進行中の龍窟と呼ばれる小さな洞窟があるが奥深く潜入する程の広さはない。龍窟の右手には江の島を二分する入江があり、かつては岩屋のような洞窟であったものが重さに耐え切れず崩れて現在のようなくびれた形になったと言われている。
岩屋の入り口に向かう歩道橋から、亀が沖に向かって泳いでいる様子そのままの亀石が見える。潮位によって見え方が違うが、亀が沖に向かって泳いでいる姿をしていることで有名である。
歩道橋から辺り一面を眺めると自然の力の偉大さが見るとともに、やはり不思議な感情におそわれるがこれが古くからの岩屋信仰につながったと思われる。
6.江の島サムエル・コッキング苑
明治15年(1882)に、イギリス貿易商のサムエル・コッキング氏が江の島の頂上広場に植物園を増設したが、その後、所有者が次々と変わり関東大震災で殆どの温室等の上屋は倒壊した。昭和24年に藤沢市営となって一般公開され、植物園の他、小動物園、温室、遊園地があった。植物園の中に展望塔が作られたのは昭和25年(1950)で、前年に江の島弁天橋が掛けられたのに続いて、二子玉川にあったパラシュート練習塔を江の島の灯台として移設したものであった。

平成15年(2003)に江ノ島電鉄(株)の創業100周年記念事業として展望台が建て替えられることになり、その他の施設も藤沢市によってリニューアルされ、平成15年(2003)4月29日に、「江ノ島サムエル・コッキング苑」がオープンした。旧施設はサムエル・コッキングの建造したレンガ造りの温室遺構だけが残され、藤沢市の姉妹都市・友好都市にちなんで、東洋のマイアミビーチとして片瀬海岸を見渡せるマイアミビーチ市広場、蔵風の蕎麦打ち体験施設のある松本市広場、中国伝統建築様式の四阿(あずまや)がある昆明市広場、カナダ国ウィンザー市特産である大輪の美しいバラ園があるウィンザー市広場、保寧市(ポリョン市)広場が新設された。
新展望灯台は高さ.59.8m海抜119.6m、光達距離は23海里(46km)で民間灯台としては国内最大級。収容人員188人の展望フロアからは、逗子、葉山、三浦半島、城ヶ島、伊豆半島、箱根、富士山など360度の景色を見渡せる。1階にはカフェやショップのほかに旧展望塔の台座部分を利用した郷土資料室があり旧展望塔で使用されていたライトや古い写真のほか、出土した縄文土器の写真なども展示されている。
(注)
江ノ島フラワーフェスタが、今年は、4月29日から5月28日まで、サムエルコッキング苑で行われる。当日は、ウインザーから送られたバラ数百株が満開で、温室遺構解放・ガーデニングカフェ・ライヴ 等のイヴェントがある。
7.江島大師
明治時代には江の島に三寺院があったが、廃仏毀釈令(はいぶつきしゃくれい)で総て取り壊された。平成5年(1993)に鹿児島高野山最福寺の別院として125年ぶりに再建開山。別名江島大師と呼ばれる真言宗の寺である。
本堂前の赤不動立像が拝観者を心良く迎えてくれる。本堂内には誰でも入ることができ、本堂の室内に安置された本尊、高さ6mで日本最大の赤不動像を拝むことができる。堂内には、住職秘蔵の中国刺繍仏画が常設されている。
この寺は、真言宗の開祖、弘法大師(空海)の教えにのっとり、五百年の伝統を有する修験行者の十八代として様々な荒行を積まれた池田恵観傳燈大阿者闍梨を中心に連日厳しい護摩行が続けられ、それぞれの願いの成就を願う多くの方が訪れている。同法王は前人未踏の百万枚護摩行を成満されたことで有名で、自伝の「阿字」を出版されており、著名人の信奉者が多い。
8.児玉神社
大正7年(1918)に明治時代の陸軍大将児玉源太郎(1852〜1906)の霊を祀る神社として創建された。児玉源太郎は父が徳山藩士で山口県で生まれた。戊辰戦争に参加した後、陸軍へ入り、佐賀の乱、西南戦争などに従軍し、士族の反乱を鎮圧。明治31年(1898)に第四代台湾総督となった。明治37年2月6日から始まった日露戦争では満州軍総参謀長として活躍し、大山厳満州軍総司令官を補佐。陸軍参謀総長、文部大臣、内務大臣を歴任した。
境内には、児玉が登用した後藤新平(東京市長などを歴任)の詩碑、蒋介石の詩碑、元勲山県有朋の歌碑などがある。本殿前には、口にくわえた珠が動く珍しい狛犬があるが、台湾から運ばれたと伝わる。
島内には、「モース記念碑」、「江ノ島霊迹建寺(れいせきこんじ)の碑」、「山田検校顕彰碑」」など記念碑の他に、「沼田頼輔の歌碑」、「永野泉山の句碑」、「永瀬覇天朗句碑」、「高木蒼悟の句碑」、間宮霞軒の句碑」、「古帳庵の句碑」「福島漁村の句碑」など‥‥後世に伝わる作品を残した人々の詩・歌・句碑が数多く建っている。
奥津宮の 御岩屋道の急な石段を下っていくと、中腹の踊り場に芭蕉の句碑・服部南郭詩碑が建っている。
(上記の写真は、左が「服部南郭の詩碑」右が「芭蕉の句碑」)