東勝寺橋〜腹切りやぐら
鎌倉市小町


東勝寺橋と青砥藤綱旧蹟


小町大路の妙隆寺から寶戒寺に向かって、150m程のところを右折し、しばらく進むと滑川に架かる東勝寺橋がある。現在の橋は、関東大震災の翌年の大正13年(1924)に建造されたアーチ構造で太く安定感のある美しい姿をしており、平成11年(1999)に「かまくら景観百選」に選定されている。



橋の袂に青砥藤綱旧蹟の石碑が建っている。青砥左衛門尉藤綱は、鎌倉幕府執権・北条時宗、貞時の二代に引付衆(今の裁判官)として仕えた武将である。

「太平記ニ拠レバ 藤綱ハ北條時宗 貞時ノ二代ニ仕ヘテ引付衆ニ列リシ人ナルガ 嘗テ夜ニ入リ出仕ノ際誤ッテ銭十文ヲ滑川ニ堕シ 五十文ノ續松ヲ購ヒ 水中ヲ照ラシテ銭ヲ捜シ竟ニ之ヲ得タリ 時ニ人々 小利大損哉ト之ヲ嘲ル 藤綱ハ「十文ハ小ナリト雖 之ヲ失ヘバ天下ノ貨ヲ損ゼン 五十文ハ我ニ損ナリト雖 亦人ニ益ス」旨ヲ訓セシトイフ 即チ其ノ物語ハ 此ノ邊ニ於テ 演ゼラレシモノナラント傳ヘラル

                   昭和十三年三月建        鎌倉町青年團 」

太平記によると、藤綱は、北条時宗・貞時の二代に、引付衆として仕えた。ある夜出勤途上十文銭を滑川に落してしまった。すぐ家来に命じて「たいまつ」を五十文で買ってこさせ、水中を照らし銭を探し当てることができた。このことを聞いた人たちは十文の銭を見つけるのに五十文も使っては大損ではないか」いって笑った。藤綱は、「十文の銭は小さいが、探さなければ天下の貨幣は永久に失われてしまう。五十文を払って損をするのは自分だが、拾いあげた十文銭は手元にあるし、たいまつを買った五十文も商人の手から次々と流通して世の中で役立っている。合わせて六十文の銭はなんの損失もない。これが天下の利益というものだ」と説いたという。


東勝寺橋を渡り、坂道を150m位上がると、左手に東勝寺跡の「説明板」が立っている。

東勝寺跡

東勝寺は、鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が母の追善と北条宗家の菩提寺として、嘉禎3年(1237)に栄西の弟子退耕行勇を開山とし創建、青竜山と号し臨済宗と密教の兼修寺院で関東十刹の一つであった。元亨3年(1323)の北条貞時十三回忌法要には東勝寺の僧衆53人が参加したとの記録があるといわれる程かなり大きな寺であった。


元弘3年(1333)5月22日の新田義貞の鎌倉攻めの時、新田軍が若宮大路まで迫ってきた事を知った北条高時は、一族郎党870余名とともに、父祖代々の菩提寺である東勝寺へ立て篭もり、堂に火をかけて次々に自刃、建久3年(1192)源頼朝公が開いた鎌倉幕府終焉の地となったのである。

なお、寺はその後直に再興され、室町時代には関東十刹の第三位の名刹となったが、戦国時代に廃絶した。東勝寺跡は、腹切りやぐらとともに発掘調査が4回行われている。昭和50年と51年の調査では、北条氏の家紋である「三つ鱗」のある瓦や青磁・天目茶碗などの貴重な中国製陶磁器が発見され、平成8年と9年の調査では、客間らしき掘立柱建物跡が検出されており、平成10年7月31日に国指定史跡となっている。


腹切りやぐら




入り口付近に、「この付近は淨域につき参拝・供養以外立ち入を禁ずる」という立て札が立っており、この地は現在寶戒寺が管理している。




立て札と石碑の前の小道を上ると、ぽっかり口をあけたやぐらがあり、それは「腹切りやぐら」と呼ばれている。その中には卒塔婆と石を積んだ小さな塔が沢山あるが、北条高時の洞穴式墳墓と伝えられている。


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