鎌倉七福神巡り


1.浄智寺(布袋尊)=鎌倉市山の内1402

臨済宗円覚寺派で金宝山と号し、鎌倉五山第四位の寺格で鎌倉三十一番の札所。
弘安4年(1281)に29歳の若さで世を去った第五代執権北条時頼の三男宗政の夫人が、一族の助けをえて寺を起こし、亡夫と時頼の孫で幼少の師時を開基としたといわれる。開山は、宋の高僧、兀庵普寧と大林正念(請待開山)および日本人僧、真応禅師南州宏海(準開山)の三人。
この寺が創建された十三世紀の終わりころの鎌倉は、北条氏の勢力下にあり、禅寺が最も栄えた時期である。延文元年(1356)の火災で初期の伽藍を失ったが、室町時代に主要な建物や塔頭を再建。江戸時代後期には、仏殿・方丈・鐘楼・外門・惣門・塔頭八院などがあったが、大正12年の関東大地震で殆ど倒壊した。現在は三門・二階に鐘をさげた桜門や、新しい仏殿の曇華殿・方丈・客殿などが伽藍を形成している。
参道入口の石橋のほとりに、鎌倉十井の一つ、「甘露の井」がある。三門をくぐり梅の木のある参道の奥に、無学祖元(仏光国師)の書と伝わる「山居幽勝」の掲額がある二層の鐘楼門が建ち、屋根には三つ鱗の北条氏の家紋が輝く。


寺域は背後の谷戸に深くのび、三方が山に囲まれている。本堂裏の竹林の中に苔むした五輪塔、宝篋印塔が並ぶ。やぐらの奥に、とぐろを巻く蛇の上に座す宇賀神、金宝弁財天も祀られている。

一番奥のやぐらには、福耳を下げ、何やら雨宿りをしている感じで、ニコヤカな等身大の布袋尊像が祀られている正月の七福神巡りの頃は葉を落とした大銀杏の枝を通して仰ぐ空は、初詣に相応しい厳かな雰囲気を醸し出している。








浄智寺を出て鎌倉街道を進み、巨福呂坂の下り坂のトンネルをぐぐり、更に歩を進めると鶴岡八幡宮の裏側に出ます。



2.白旗神社(旗上弁財天)=鎌倉市雪の下2−1−31

鶴岡八幡宮の三の鳥居をぐぐり、参道を進み石造りの太鼓橋を越えた右側に源氏池がある。池に浮かぶ三つの島の一番大きい島に架かる朱色の欄干の丸橋を渡ると、源頼朝が源氏の白旗を掲げて、戦勝を感謝するために祀ったといわれる旗上弁財天がある。

鎌倉時代に、妙音芸能の女神、福徳、利則の霊神として世に広く敬われるこの弁財天は、鎌倉彫刻の代表作として市重文に指定されているが社の扉が閉ざされているので直接拝顔することはできない。なお、弁財天は江の島の「江島神社」にも祀られてあり、「鎌倉・江の島七福神」の一つに指定されている。

「参考」  江島神社(弁財天)
藤沢市江の島の江島神社の狭い参道を抜けて、竜宮城のような門をくぐり、階段を上ると辺津宮に出る。
境内の一角にある八角形のお堂が、弁財天を祀る奉安殿である。鎌倉初期の名作で高さ50センチ程の全裸で琵琶を抱いた姿の妙音弁財天と、源頼朝が文覚上人に命じて勧請した八臂弁財天が祀られ、県の重文に指定されている。守り本尊の裸弁財天は、近江(滋賀県)の竹生島、安芸(広島県)の厳島の弁財天とともに“日本三大弁天”といわれている。

鶴岡八幡宮の段葛を通って小町通りに出ます。小町3丁目の寶戒寺、2丁目の妙隆寺、1丁目の本覚寺と順次拝観します。



3.寶戒寺(毘沙門天)=鎌倉市小町3−5-22

天台宗で、金龍山釈満院と号し、開基は後醍醐天皇。開山は天台宗座主五代国師、円観恵鎮守、慈威和上で、建武2年(1335)の創建。鎌倉三十三観音第二番札所で、萩寺としても有名な古刹である。後醍醐天皇が、征夷大将軍足利尊氏に命じて、元和3年(1333)5月21日に滅亡した鎌倉幕府第十四代執権北条高時以下の北条氏一族の怨魂の弔いと、鎮護国家の円頓大戒弘通(一遇を照らす人の養成)の道場として北条得宗邸跡に、北条氏の菩提寺であった東勝寺を移して祀った。七堂伽藍、二ケ院、三十六坊を有し足利氏の寺として栄えたが、天文7年(1538)に火災に遭い衰えた。時の住職が徳川家康に関東における天台律宗本山としての保護願いを言上したといわれる。

参道を進み、正面に寛政十戍牛歳十月と刻まれた一対の燈篭、その脇に東久邇宮手植えの柏槇、その後方に巡礼者の張り札が目立つ本堂がある。本堂の中央に、本尊として貞治4年(1365)三条法印憲円(胎内に銘記されてある)作の子育経読地蔵菩薩坐像(国重文)、脇仏として左に帝釈天、右には県重文指定の梵天が祀られている。


左奥の紫地に菊の紋がある「福徳天女」の内陣中央に不動明王、左脇仏として鎌倉三十三札所第二番の仏、仏母准観世音像、右脇仏に毘沙門天像が祀られている


この内陣の菊の紋は、後鳥羽上皇が北条執権幕府打倒のため足利尊氏に対し菊の紋が入った太刀と旗を与えたという故事からこの寺に菊の御紋が許されたといわれる。本堂右奥の入口に、「一隅を照らす此れ即国宝なり」と伝教大師の聖句の札が掲げられてある。縁結びの天女の間には国重文指定の普川国師准賢和上座像を中心に、開山の慈威和上、閻魔大王、伝教・弘法大師像などが安置されている。



4.妙隆寺(壽老人)=鎌倉市小町2-17-20

日蓮宗で叡昌山と号し、本尊は日蓮上人。源頼朝に信を得た千葉介次郎常胤((恒武平氏)の子孫の千葉大隅守平胤貞(のちに出家)の邸宅跡に、至徳2年(1385)に七堂伽藍を建立し、妙親院日英上人を迎え開山した。応永34年(1427)の冬、第二祖の久遠成院日親上人が21歳の時に、当寺のお堂前の池で寒中百日間の水行などの修行を積み、京に上って日蓮が書いた立正安国論を時の将軍足利義教に献じ悪政を戒めたため幕府に捕らえられ、弾圧を受けて焼き鍋を頭に被せられる極刑に処せられた。それでも自説を曲げず法華経弘通につとめ「なべかむりの日親」の名を残して、長享2年(1488)9月に京都本法寺で82歳の生涯を終えたが、池の向側には日親上人石像が安置されている。

境内の一遇にある小さなお堂に、その日親上人ゆかりの欅の一本造りの「壽老人」の像が祀られてあり、ガラスの扉越しに参拝することができる。長寿を司る福の神といわれるが、お供の鹿はこの神に仕えて三千年の長寿を象徴していると信仰されている。




5.本覚寺(恵比寿)=鎌倉市小町1−12

日蓮宗で、妙厳山と号し、足利基氏の創建で、開山は日出上人。
ここは佐渡に流された日蓮が許されて鎌倉に戻った時に居を構えた場所である。二世の日朝上人が身延山で修行を積み、将軍足利義教の援助により関東の信者のために身延山から日蓮の遺骨を分骨して慰霊堂を造ったことから、この寺は俗に東身延山と呼ばれており、土地の人々は「日朝さま」とも呼んでいる。JR鎌倉駅から5分程の場所にあり、寺そのものが公園のようになっているので、境内を近道代わりに通る人も多い。日蓮の弟子となった刀聖の政宗・貞宗二代の墓があることから料理人の崇敬者が多いといわれる。



昭和56年(1981)に、日蓮ゆかりの夷堂が境内の一角に建立され、夷神が祀られている。正月は参拝者が多いが、特に10日には夷祭が行われるので賑わう。


「参考」
2001年にNHK大河ドラマで「北条時宗」が放映され、「時宗と日蓮」に関する史跡巡りが盛んでしたが、本覚寺付近には日蓮ゆかりの場所が多くあります。本覚寺の正門を出て大町と小町の境界に、鎌倉十橋の一つ夷堂橋があり、大町1−7の通りに比企一族の供養のために比企能員邸跡に子の熊本が建立した日蓮宗妙本寺。更に、その隣りに日蓮が龍ノ口法難の時役人に引き立てられた際、寺の桟敷尼がボタ餅を献上したという俗にボタ餅寺と呼ばれる日蓮宗常栄寺があります。

少し疲れたと思いますので、これからは「鎌倉駅」から三つ目の「長谷駅」まで、江ノ電を利用することにします。長谷駅から5分程の所に御霊神社があります。


6.御霊神社(福禄壽=鎌倉市坂ノ下3−17

鎌倉付近には、平安時代末期に関東で活躍した大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉という恒武平氏の五家があり、この五家の祖霊を祀る氏神として五霊神社が建てられた。これが何時しか平安時代末期の後三年の役で、源義家に従い敵の矢で右目を射抜かれながら怯まず奮戦したという武勇で名高い鎌倉権五郎景正(政)公の一柱だけ祀るようになり、御霊(ごりょう)神社となった。

俗に鎌倉権五郎神社とも呼ばれているこの神社では、景正公の命日の9月18日午後1時から鎌倉神楽の奉納があり、午後2時半頃からおかめやひょっとこなど伎楽、舞楽、田楽などに使う特殊な面を付けた10人の行列が鎌倉囃子のリズムにのって、坂ノ下の町内を練り歩く。この「面掛行列」という行事は県指定の無形文化財となっている。


 
この面の中に福禄寿がおり、南極星の化身で鶴を伴い長寿を保ち家禄を司る福の神ということで、鎌倉七福神として公開され崇敬を集めている。



神社の境内には大銀杏が立ち並び、景正公の弓立の松と手玉石、袂石、左26貫、右16貫の石が安置され、タブの古木と大銀杏の枝が境内を覆っている。





神社の右から出て細い道を歩くと、坂下2−2に御霊小路の碑があります。長谷大仏からこの神社へ古人達の参詣の道筋だったようで、裏小路には今なお昔の旅人の草鞋の音が感じられます。観音通りに出て左折すれば、前方の山上に長谷寺の大伽藍が望めます。



7.長谷寺(大黒天=鎌倉市長谷3−11

浄土宗で海光山慈照院と号し、藤原房前の開基で、徳道上人が開山。養老5年(721)に徳道上人が一本の楠の木で二体の十一面観音を造り、木の元で造った像は大和の長谷寺に祀り、木の末で造った像を人々を救って下さいと海に流した。それから16年後の天平8年(736)6月18日夜に相模国三浦の長井浜に漂着し海上に光明を放ったという。その観音像をこの地に運んで徳道上人を招き、この寺を建立して本尊としたため「新長谷寺」とも呼ばれている。

山門前にタブの古木があり、境内に入って石段を上ると右に五葉松がありその先に観音堂がある。堂内中央に、康永元年(1342)に足利尊氏が金箔を施し、足利義満が明徳3年(1392)に光背を納めたといわれる本尊の十一面観音菩薩、本尊の横には弘法大師像と徳道上人像が祀られてある。本尊は御丈3丈3寸(9.18m)で、右手に錫杖、左手に蓮華を差した華瓶を持つ独特な姿で、一般に「長谷式」と呼ばれ、地蔵・観音菩薩の力を兼ね備えた仏として熱心な信者が多く、坂東三十三観音霊場第四番札所として古くから知られている。






室町時代の応永19年(1412)作の大黒天像は、宝物館に安置されており、代わりに出世開運授け大黒天が大黒天堂に祀られ、鎌倉七福神の一つに指定されている。







大黒天堂の右に、「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも西方極楽浄土へ招いてくれるといわれる阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂がある。この像は源頼朝が自らの厄除けのために建立したもので、「厄除け如来」として崇拝者が多いという。奥には大地の恵みのような力を持つ仏といわれる地蔵菩薩を祀る地蔵堂や径堂などがある。本堂の廊下を渡ると宝物殿があり、梵鐘、宝篋印塔陽刻板碑、阿弥陀種子板碑、鰐口、観音像などが展示されてある。

境内には七福神巡りの疲れを休めるのに格好の見晴台があり、そこからは由比ヶ浜、材木座海岸、晴れた日には遠くは三浦半島まで見通せる。

石段を下って放生池に架かる橋を渡ると左側に弁財天を祀る弁天堂があり、その奥に弘法大師が篭もり修行したといわれる洞窟がある。




その中には弁財天に仕えそれぞれの衆生に福と知恵を与えてくれる従者の印鑰童子(心の鍵を解き心を明るくする神)、官帯童子(法を守る神)、筆硯童子(学問成就の神)、金財童子(商売の神)、稲籾童子(五穀豊穣の神)、計升童子(経理・経営の神)、飯櫃童子(食物の神)、衣装童子(衣服の神)、蚕養童子(養蚕の神)、酒泉童子(酒の神)、愛敬童子(愛情・恋愛の神)、生命童子(生命・長寿の神)、従者童子(経営の神)、牛馬童子(動物愛護の神)、船車童子(交通安全の神)、大黒天善財童子(童子のすべてを司る神)の16童子が祀られている。








鎌倉七福神巡りはこれで無事に終りました。
お疲れさまでした。
皆様に幸運がもたらされることを祈ります。