建長寺(けんちょうじ)

鎌倉市山ノ内8

臨済宗建長寺派総本山
巨福山建長寺興国禅寺と号し、鎌倉五山第一位の古刹

第五代執権北条時頼(1227〜1263)が開基となり、建長元年(1249)に着工、同5年に竣工し、山号は寺の前を通る巨福坂から、寺名は創建の年号からつけられた。開山は、33歳で宋より来日した禅僧 蘭渓道隆で、時あたかも摂家将軍九条頼経を追放し北条執権政治が確立されようとした頃であった。蘭渓は禅僧に厳しい規律を課し、66歳で没するまで鎌倉五山禅宗発展の基礎を築くため精進を重ねた功績により、後醍醐天皇から日本で最初の禅師号である「大覚禅師」という号をおくられた。わが国最初の禅宗専門道場として往時は388人の僧侶と千人を超える雲水が修行したと伝えられ、蘭渓が使った自筆の指導書「法語規則」は国宝として寺に保管されている。大覚禅師が示寂後も北条氏、足利氏に保護されたが、特に時頼は信仰者として全国に禅宗を広めたという。
牛蒡、大根、里芋などの根菜の野菜や豆腐を油で炒めて作った「けんちん汁」は、禅僧の 蘭渓が野菜のヘタや皮も無駄にしないように考案したもので、建長汁がなまって「けんちん汁」となり、豆腐を崩して入れるのは、誤って落とした豆腐を使ったためと伝わっている。


当時49院あった塔頭は総て焼失したが、江戸時代に再建復興した総門、三門、仏殿、法堂などの建物が一直線上に並ぶ宋の禅宗様式の伽藍配置の面影が今も残り、七堂伽藍と塔頭十数院が広大な敷地に点在する。この寺付近は新田義貞の鎌倉攻めで最大の激戦地となった場所で、寺地は俗に地獄谷と呼ばれる処刑場で心平寺という寺があった。この寺の罪人を救ったという本尊の地蔵菩薩のみが現在も建長寺の仏殿に安置されている。

北鎌倉駅方面から鎌倉街道を歩いて、この寺に入る西の外門に、「天下禅林」の掲額がある。拝観券の裏側に、「人材を広く天下に求め育成する禅寺」との意 西の外門(北鎌倉側門)に掲げ我が国最初の禅宗寺院で鎌倉五山第一位の建長寺をを象徴する語と書かれてある。
外門を入ると広い境内の中央に総門がある。この門は天明3年(1783)の建立で、昭和18年(1943)に京都の般舟三味院から移築された。門に掲額の「巨福山」の文字は、第十世住持の一山一寧(渡来僧)の筆と伝えられ、勢いあまって「巨」の文字に「、」が加えられてあり、この一点によって全体が引き締まっている。

総門を入った参道両脇の桜の大木の奥に、安永4年(1775)に再建された銅板葺き屋根で唐破風造りの二層の三門(国重文)がある。再建に関東一円から浄財を募ったが、その時一匹の狸が僧侶姿に化け門再建に協力したということから別名狸の三門と呼ばれている。なお、三門とは三解脱門の略で「山門」ともいう。
掲額の「建長興国禅寺」の文字は、寺伝では後深草天皇の宸筆というが、大通禅師(宋僧)の筆とするのが正しいともいわれている。楼上には宝冠釈迦如来像、木造十六羅漢像や銅造五百羅漢などが安置されている。




三門と仏殿の間にある7本の柏槙は、蘭渓道隆が宋から種を持参して植えたものといわれ、幾多の火災からも耐えて750年に及ぶ間、この寺の歴史とともに生き抜いてきた貴重な古木で、幹回りは7mもある。宋風の前庭様式として植えられた意義深い柏槙は、一層寺の壮厳さを増している。




仏殿(国重文)は、正保4年(1647)に徳川二代将軍秀忠夫人、崇源院の霊廟室を芝増上寺から移築したものである。霊廟建築として造られたもので、屋根や天井などの形式が一般的な禅宗の仏殿とは異なっており、屋根は入母屋造でなく寄棟造である。天井は禅宗仏殿では平板な「鏡天井」とし、龍などの絵を描くことが多いが、この仏殿の天井は和様の格天井である。
本尊として室町時代作の木造地蔵菩薩坐像(像高2.4メートル)、脇侍として鎌倉時代作の千手観音菩薩像、伽藍神像、歴代住職の位牌なども安置されているが、一般参観者は中に入ることはできない。

儀式法要を行う法堂(国重文)は、関東ではこの寺の堂が最大で、宋から見て海の東の寺ということから、「海東法窟」と中国語の掲額がある。堂内には、仏に代わって住職が大衆に説法する法座(須弥壇)があり、天井には、「修行僧に法の雨を降らす」の意がある水墨の雲龍図が描かれている。なお、文化11年(1814)に再建されたこの寺の法堂には、天井画がなかったが、創建750年の記念事業の一環として、小泉淳作画伯が平成10年から12年の足かけ3年をかけて制作した縦約10m、横約12mの巨大な大作である。

法堂から左の参道を行くと唐破風の華麗な唐門(国重文)がある。仏殿と同じく、正保4年(1647)に芝増上寺の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築した方丈の正門で、勅使門ともいう。
「龍王殿」と掲額のある方丈は、享保17年(1732)の建立で京都の般舟三昧院から昭和15年(1940)に移築された。本来は住持が居住する場所であるが、現在は法要・坐禅・研修の場所として使われている。その屋根には筒の中に納めた仏典を開いたイメージを画いたといわれる北条家の家紋「三つ鱗」が金色に輝いている。



方丈の裏には、開山大覚禅師作の庭園がある。心字池に石橋を渡した禅寺の代表的庭園で名勝史跡となっている。江戸時代に改修され、池の中に亀をおいて橋をかけ、回廊から望む石、松、槙、ツツジを配したその景観は参観者の心を和げる。




その奥の山の中腹には、この寺の鎮守である半僧坊大権現が祀られ、毎月17日に祭礼が行われる。 寺域には大覚禅師の廟所でもある西来院を始め、妙高院、宝珠院、龍峯院、天源院、正統院、回春院、禅居院など十数院の塔頭が点在する。

三門の東側にある鐘楼に架かる梵鐘(国宝)は、建長7年(1255)時頼の発願で、鎌倉鋳造師棟梁大和権守物部重光が鋳造。大覚禅師が書いた「巨福山建長寺禅寺鐘名……。」で始まる長文の銘文が彫られてあり、円覚寺、常楽寺の大鐘と共に、鎌倉三大名鐘の一つとなっており、創建当時の物で今も残っているのは、この梵鐘と柏槙だけである。



宝物殿には、蘭渓道隆像(絵画、国宝)、同 自賛像、十六羅漢 八幅、宝冠釈迦三尊像、三十三観音像 三十三幅、喜江禅師像、須弥檀方語規則 二幅、和漢年代記、木造北条時頼坐像(国重文)など文化財が多く保管されており、毎年11月3日前後の宝物風入れの時には一般の人も参観することができる。

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