日蓮宗 行時山光則寺

第五代執権北条時頼の近臣で、幕府の重職にあった宿谷光則(やどやみつのり)が、日蓮に帰依し、自邸跡に父行時の名を山号、自分の名を寺名にして開基となり、日蓮の弟子、日朗上人が開山した寺である。
この寺は、花の名刹として知られており、境内には、百種類以上の野草と茶花が植えられてあり初春の梅に始まり、4月には垂れ桜、海棠の花が咲き乱れる。6月には、色とりどりの紫陽花や、本堂の左手にあたる池の端では大きな白い花を付けた見事なシャクナゲが楽しませてくれる。
本堂の前に、鎌倉市指定天然記念物に選ばれている関東一の樹齢 約百六十年、樹高約7mの海棠(かいどう)の木が聳え立ち、朽ちかけた幹の穴が粘土状のもので補強されている。

本堂には、万治4年(1661)作の木造日蓮上人坐像、寛文12年(1673)伝日朗入牢七人衆像、江戸時代に寺の再建に尽力した大梅院尼像などが祀られている。
本堂左手には、宮沢賢治の」雨ニモマケズ」の詩碑がある。
日蓮は、文応元年(1260)に鎌倉松葉谷の草庵で 書き上げた「立正安国論」を、宿谷光則を介して同年7月16日に北条時頼へ献上した。その書は、正嘉元年(1257)の大地震のような天変地変や飢饉疫病の蔓延は、禅や専修念仏が広まって正法(しょうぼう)である法華経の信仰が失われようとしているからだと主張し、難から逃れて理想的な社会を築くためには「南無妙法蓮華経」と唱えて総ての人が帰依しなくてはならないと主張している。その論旨は幕府には受け入れられず、日蓮は伊豆に流罪となった。その後許された日蓮は、鎌倉に戻り再び布教活動を行ったが、法華経以外は邪宗だと他宗派を攻撃したことにより、文永8年(1271)9月12日に捕らえられた。翌13日子丑の刻(午前1時頃)、龍の口の刑場(注)で斬首の刑が行われ役人が刀を振り上げると玉のようなものが上空で光り、刀が折れ、刑を免れた。(「龍の口の法難」といわれている)そして、日蓮は佐渡に流され、弟子の日朗も捕らえられて、光則邸の裏山の土牢に幽閉された。
境内の右手に裏山へ通じる道があり、そこを進むと手摺りが備え付けてある石段の階段がある。階段を上って行くと、左手には墓地が見え右手にある洞穴の一角に住職の墓がある。更に階段を上がると広場があり、その一角に日朗など5人が幽閉された土牢が今も残っている。日朗は日蓮が弘安5年(1282)10月8日に、本弟子と定めた6老憎の一人で、宿谷光則は幽玄された日朗らを厚遇したといわれる。
この土牢の左手には、日蓮が佐渡流罪の前夜に、抑留されていた相模の依智( えち)、本間重連邸で書いて日朗 (筑後房)に送った手紙、「土籠(つちのう)御書」の石碑が建っており、(日蓮上人直筆の書を彫った石碑)直筆は、京都の妙覚寺に保存されている。
「日蓮は、いよいよ明日、佐渡ヶ島へと流されることとなった。今夜の寒さは一層厳しく、日朗たちが土の牢に囚の身となって、寒さに凍えていることが思い出されて‥‥。」と、日蓮が佐渡に流される自分のことより、弟子達を思う聖人の心の優しさに感銘を受ける手紙として有名である。
土籠御書
日蓮は明日、佐渡の国へまかるなり。今夜のさむきに付ても、ろうのうちのありさま、思ひやられていたわしくこそ候へ。あわれ殿は、法華経一部を色身二法ともにあそばしたる御身なれば、父母・六親・一切衆生をもたすけ給ふべき御身なり。法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色身二法ともにあそばされたるこそ貴く候へ。
天諸童子 以為給使 刀杖不加 毒不能害 と説れて候へば、別の事はあるべからず。籠をばし出させ候はば、とくとくきたり給へ。見たてまつり、見えたてまつらん。恐恐謹言。
文永八年辛未十月九日 日蓮(花押)
(注)
延元2年(1337)日法上人が、龍の口刑場跡(藤沢市片瀬3−13−37)に、五重の塔、仏舎利塔、宝物館などを備えた龍口寺を建立、霊場本山となっており、法難の消息文が「刑場跡」の柵の中の碑に刻まれている。千葉県市川市にある中山法華経寺の聖教殿には、日蓮自筆の「立正安国論」が所蔵されており、国宝に指定されている。
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