九品寺(くほんじ)
鎌倉市材木座5−13ー14

浄土宗、内裏山霊嶽院九品寺

寺域は、元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの時に本陣をはった場所の一つで、建武3年(1336)に、新田義貞が戦の攻防で倒れた双方の武士を弔うためここに寺を創建し、帰依した風航順西和尚を京都東山から招いて開山した。山門に掲額されている「内裏山」と本堂の「九品寺」は義貞の筆跡で、直筆の額は本堂にある。

浄土宗三部経のなかに、阿弥陀仏が説法された極楽往生を願う人の生前の行いによって定められた9種類の往生の有様がある。上品、中品、下品のそれぞれに上生、中生、下生があり、合わせて九品とされいる。上品上生(じょうぼんじょうしょう)は最高の往生である。この九品から寺名が付けられ、義貞公がこの地を内裏として陣営を設けられたことから寺号が内裏山となったという。

境内の正面に本堂があり、左に庫裡がある。本尊の阿弥陀如来立像は、聖徳太子の作で水晶の玉眼を持っており、鎌倉市重要文化財となっている。本堂には、法然上人、善導大師像が祀られている。境内から発掘されたという石造薬師如来坐像は、永仁4年(1296)の作といわれ、県重要文化財に指定されている。寺宝となっている承応4年(1655)銘の石像の閻魔大王坐像、奪衣婆坐像はともに鎌倉国宝館に展示されている。
浄土宗大本山九十九代規誉上人が南無阿弥陀仏と唱えながら、その六文字を連ねて描かれたという「文字画」の掛軸、三世順妙和尚が書いた寺の「縁起書」、法然上人の絵伝が描かれた輪島塗の屏風などが保存されている。本堂裏の墓地の上に薬師堂、合祀墓と大正初期に建てられた「月影庵」があり、そこから鶴岡八幡宮が望める。



本堂前の左には、見事な松の木があり、本堂前の境内右側に浄土宗の開祖法然上人を讃えた宗歌、

      月影の いたらぬ里はなけれども
                    ながむる人の 心にぞすむ

の歌碑が建っている。


水道道を進めば、鎌倉十橋の一つで一枚石の橋としても有名だった乱橋、その右側に日蓮法難ゆかりの寺、妙長寺がある。


妙長寺(みょうちょうじ)
鎌倉市材木座2−8

日蓮宗、海潮山と号す

正安元年(1299)日蓮の弟子日実上人が創建・開山した。縁起によれば、「当寺は元由比ヶ浜の沼ヶ浦に在り、日蓮が元軍の来襲を予言し幕府に人民を迷わしたという罪を着せられ捕らえられ、弘長元年(1261)5月12日に伊豆に流刑された。日蓮は川奈の漁師の船守弥三郎に助けられ伊豆での生活を送っていたが、弘長3年2月28日幕府の許しを得て沼ヶ浜に戻った。(日蓮の第一回法難)、そして弥三郎の倅が日蓮に帰依し出家、日蓮の没後にこの場所に一宇を建て海潮山妙長寺とした。この人が開山創建の日実である。その後、天和元年(1681)の大津波で堂宇の大半を流失したが、高台にあった祖師堂のみが難を免れ、明治中期まで乗船堂実成庵と称し寺を維持して来た。第二十一世日慶上人の時に後難を恐れ、乱橋村畠中の天目山圓成寺の旧址に本堂を再興してのがこの寺の源となっている……」と。

山門をくぐった境内には、水産業者が建てた鱗供養塔と浄水菩薩像が祀られて、その傍らに日蓮伊豆法難記念塔が建っている。この塔は関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮寺の鳥居を利用したもので、寛文は八年戊申八月十五日銘が残されている。

水道路を大町方面に直進し、大町四ツ角を左折し、横須賀線がガードをくぐって歩を進めると夷堂橋前に本覚寺がある。


本覚寺(ほんかくじ)
鎌倉市小町1−12ー12

日蓮宗、妙厳山と号す

寺域は幕府の裏鬼門にあたることから、源頼朝が守護神の夷神を祀るため夷堂を建てた場所である。龍ノ口での処刑を逃れ佐渡へ流刑された日蓮が、文永11年(1274)に刑を許されて鎌倉に戻り、この夷堂に滞在し再び布教を始めたという。なお、その夷堂は明治6年の神仏分離令により隣の蛭子神社に移管された。

この寺は、日蓮のあとこの地で布教を始めた日出上人が、永享8年(1436)に足利基氏の援助を受けて創建開山された。二世住持の日朝が身延山で修行を積み、身延山参詣の困難な関東の信者のために開祖日蓮の遺骨を持ち帰り、将軍足利義教 の援助により分骨堂を造った。それ以来「東身延」と呼ばれるようになり、土地の人はこの寺を「日朝さま」と呼んでいる。

夷堂橋前の仁王門をくぐると正面に壮大な本堂が見える。境内には玉砂利が敷かれてあり、本堂、鐘楼、分骨堂が立ち並ぶ。本堂には釈迦三尊像が祀られてある。鎌倉時代後期の刀匠として有名な岡崎五郎正宗は、日蓮の弟子であったため、この寺に墓が造られ、二代目貞宗の墓もあることから、料理人の崇敬者の参詣が多い。

門の右手には昭和56年に再建された八角形の夷堂があり、独特の形状は印象深い建物で、鎌倉七福神の恵比須さまが祀られている。毎年1月9日が宵えびす、1月10日が初えびすで、着飾った福娘が境内のあちこちで見られ、福銭やお神酒が参拝者に振舞われ、商売繁盛や好景気を願う人々で賑わう。


大巧寺(だいぎょうじ)
鎌倉市小町1−9ー28

長慶山と号し、日蓮宗系単立寺院

鶴岡八幡宮の第二鳥居の右側の通路の海岸寄りすぐ傍に、「安産子育産女霊人」と刻字された石柱が建ち、階段を上がった所に朱色の門がある。源頼朝が、十二所にあった祈願所大行寺で練った作戦で平家に大勝したため、寺名を大巧寺と改め、元応2年(1320)にこの地に移設させた。なお、大行寺は真言宗の寺だったといわれるが、日蓮の弟子、日澄上人が日蓮宗に改宗し、長慶山と号して開山し今日に至っている。

朱色の門をくぐると右側にはビルが建っているが、細い参道の両側には多種類の草花や花木が植えられてある。8月から9月にかけては参道にタマスダレの白い花が咲き誇り、美しい光景を目にすることができる。参道を突き当たり左に曲がると本堂のある境内に出る。

(写真は、小町通りに面した正門入り口)

室町時代に、第五世住職日棟上人が難産で死亡した産婦の霊を慰めるため、安産の神として産女霊神(うぶめれいじん)を本尊として祀ったことから、安産祈願の寺として 通称「おんめさま」と呼ばれるようになり、妊婦の参詣人が多い。

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