真言宗大覚寺派 田谷山定泉寺 天文元年(1532)に、神仏混淆の鶴岡八幡宮寺の北西に設けた鶴岡二十五坊の僧隆継阿闍梨により、修禅道場として建立されたと伝わる。近世には横浜市港北区烏山町にある高野山真言宗の瑞雲山三会寺の末寺であったが、第二次世界大戦後に古義真言宗大覚寺派に転じ、本尊として厄除身代り阿弥陀如来を祀っている。
本堂の裏手にある小さな舌状台地の地下に人工洞窟があり、洞窟内に入ることができる。一般には「田谷の洞窟」と呼ばれているが、正式名称は密教用語の瑜伽(ゆか) 洞という。その原型は古墳時代の横穴墓ないし横穴式住居の跡ではないかと言われ、伝説では、和田義盛の三男朝比奈義秀が弁財天を祀っていて、建暦3年(1213)に起きた和田合戦で義秀がこの洞窟を伝って落ち延びたともいわれているが、鎌倉時代に真言密教の修行場として開鑿されたのが直接の起源のようである。
洞窟内は10個前後の広い空間を通路で結ぶような形で作られてあり、現在でも住僧や一般からの希望者による修行の場であり、厳粛な宗教空間となっている。この広い空間や通路の壁面や天井には、両界曼荼羅(密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅)諸尊十八羅漢など数百体の仏像が無言の説法をつづけている。西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ箇所、秩父三十四ヶ所、四国八十八ヶ所の壁画は、洞窟をすべて回ることで巡礼したことの代替となるために画かれているといわれている。足柄山の金太郎を描いたものなど庶民的ともいえる彫り物もある。洞内には音無川などいくつもの水が流れており、やわらかい地層の中にこれらの彫り物が保たれているのはこの湿気のためである。 |