曹洞宗 陽谷山龍宝寺 文亀3年(1503)に玉縄三代城主北条綱成が建立した瑞光院がこの寺の始まりで、開山は、泰絮宗栄大和尚。天正3年(1575)に玉縄六代城主北条氏勝によって現在地に移されたと伝わる。寺名は、四代城主北条氏繁の戒名「龍宝寺殿大応栄公大居士」からとられたという。 龍宝寺の全景を絵図に描いた「相中留恩記略」〔天保7年(1839)〜安政3年(1856)によると、本堂・庫裡・坐禅堂・山門・大庫裡・鐘楼等の大伽藍が立ち並び、両側に溝のある植木部落の道路より、石橋を渡り、両側に老松を植えた約500mの参道を経て、山門に至り山門の両側には松を植樹した5〜60mの土手があり、約200m位歩いて本堂に至る、一谷戸の全景が描かれ、更に東側の山に稲荷堂、西側の山に金比羅宮が祀られている。創建時は、広大な寺域を有していたが、小田原北条氏の滅亡とともに衰退した。 昭和26年(1951)4月26日山門をのぞくすべてが火災で焼失、昭和34年(1959)再建し10月25日落慶法要が行なわれた。本堂には本尊の宝冠釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩が祀られ、源実朝の位牌と歴代玉縄城主の位牌が安置されている。本堂の欄間には、五百羅漢木像が並んでいる。玉縄城の初代城主は、小田原城主氏綱の弟の北条氏時で、2代為昌、3代綱成、4代氏繁、5代氏舜、6代氏勝まで続いた。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、氏勝は伊豆国山中城に籠もって戦ったが、豊臣軍の猛攻の前に落城する。氏勝は城を脱出して自害を図るが、弟の直重・繁広の諫言に従って本拠である玉縄城へ戻り籠城する。その後玉縄城は徳川家康に包囲され龍宝寺住職からの説得により同年4月21日に降伏した。以後、氏勝は家康の家臣として仕え下総国岩富藩1万石の藩主となった。玉縄城は、元和5年(1619)には松平正綱が城主で正信・正久と嗣ぎ、元禄11年(1698)三河吉良に移封、玉縄城は廃城となった。裏山には三代にわたる城主の墓がある。 山門を入った左には「玉縄幼稚園」、右には「玉縄民族資料館」があり、参道は東京都の都電敷石の払い下げを受けて敷いた石畳で、敷石は本堂までの長い距離に敷かれている。寺域には稲荷堂、弁天堂 、金比羅宮、鐘楼、供養塔などがあり、劇作家北條秀司の墓がある。 元禄年間(1688〜1708年)に文治政治を発展させた新井白石が、朝鮮より幕府の慶賀に来日した朝鮮使節を迎えるために、藤沢宿に来た際、龍宝寺に泊まり、藤沢より正式の行列を整えて、江戸に赴くようにしたと言われ、植木村より白石の知行の中の二百石が収められている。その因縁によって享保10年(1725)室鳩巣撰文の「朝散大夫新井源公碑銘」を刻んだ石碑がある。
境内には、昭和44年(1969)6月20日に重要文化財に指定された旧石井家の住居がある。「三間取り四方下家造り」で、桁行七間半、梁間五間の規模を持った農家で、住居内にあった農機具や日用品などの民族資料品は、山門をくぐって直ぐ右側にある玉縄民族資料館に展示され、住居と資料館を行き来することができるようになっている。 石井家は後北條時代の地侍から発した旧家で、近世はこの地の名主をつとめてきたという。この住宅は17世紀後半頃のものと推察され、小田原城主北条氏の出城玉縄城跡に近い鎌倉から甲州に至る甲州街道筋の鎌倉市関谷にあったが、近年に建物が老朽化したため建て替えるため取り壊すことになった。菩提寺であるこの寺の現住職がこれを惜しみ、寄贈をうけて境内に移築保存されることになったという。
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