鎌倉宮(かまくらぐう

鎌倉市二階堂154


明治2年(1869)7月に明治天皇の勅令で創建された鎌倉宮は、後醍醐天皇の第三皇子、大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)が祀られている。鎌倉アルプスと呼ばれる「天園ハイキングコース」の入口にあり、岐れ路からの正面参道は、明治26年(1893)に造られた道で、旧大倉幕府の敷地を斜めに横切っており、豊かな緑に囲まれている。四季折々の花も見事で、境内にある小賀玉(おがたま)の木は、市指定の天然記念物になっている。

護良親王は、延慶元年(1308)にご誕生になり、6歳の時に京都の三千院(梶井門跡)に入室され、11歳で比叡山延暦寺に入室、尊雲法親王と呼ばれた。嘉暦3年(1328)20歳で延暦寺の最高位の天台座主になり、大塔(おおとう)に住まわれた事から大塔宮と号され、武道の鍛錬のみに励んでおられたという。

鎌倉幕府の北条執権は、元弘3年(1333)第十六代守時の時に、北条一門870余名が祇園山で腹を切って滅亡した。元弘の変が起こると、還俗して護良親王と改名し、後醍醐天皇を援けて吉野・熊野などで戦い討幕運動の中心として活躍。

建武2年(1335)7月23日、義時以来北条氏が守護として支配していた信濃の諏訪に匿われていた北条氏の残党、第十四代執権の北条高時の遺児、相模次郎時行が、・諏訪頼重・時継父子の援軍を得て、近隣の兵を引き連れ鎌倉幕府再挙の兵をあげ、足利直義の軍勢を撃破して鎌倉に入った。(中先代の乱)
その後時行は、20日ばかりで鎌倉を追われたのである。護良親王は父・後醍醐天皇が捕らえられ隠岐に配流されると、天皇の代わりとなって鎌倉幕府打倒に力を尽くしたが、足利尊氏と意見が対立し、尊氏によってこの地にあった東光寺境内の土牢に幽閉された。8月19日に、足利尊氏軍は鎌倉を奪還し、時行は逃亡、諏訪頼重は自刃した。足利尊氏の弟、直義が鎌倉から成良親王を連れて三河へ逃亡する時に、家臣の淵野辺伊賀守に幽玄されている護良親王を殺害するように命じ、親王は建武2年(1335)に28歳の短い生涯を終え、親王の首は藪の中に捨てられたが、理智光寺の住職が首塚に手厚く葬った。幽玄された土牢は、本殿の裏に今も保存されている。

明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に想いを馳せ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれ、明治2年(1869)2月親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけられ創建されたのが鎌倉宮である。なお、明治6年(1873)4月16日、明治天皇は鎌倉宮に行幸され、境内の行在所でお休みをとられた。その行在所の跡が、現在の鎌倉宮宝物殿・儀式殿となっている。

護良親王が足利氏により約9ヶ月間幽閉されていた土牢(つちろう)、護良親王の馬上像、、実際に身につけておられていたといわれる直垂の復元品、明治天皇御親筆といわれる鎌倉宮の扁額や、明治時代に活躍した東郷平八郎や乃木希典、山本五十六の書など数多くの書を展示してある宝物殿を拝観することが出来る。

護良親王の墓は、二階堂理智光寺谷にあり、宮内庁が管理している。百段以上の急な石段を登った山頂に、石垣で囲まれた中に護良親王の墓(宝篋印塔)がある。

鎌倉は、「古都鎌倉」といわれているが、天皇が居住したことはなく、鎌倉で生活をされたことのある天皇家ゆかりのお方は、護良親王と、その姉君、東慶寺第五代住職の養堂院尼だけである。従って、正式には都(古都)と呼ぶにはふさわしくないと思われるが‥‥。

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