日蓮宗 弘延山實相寺

寺域は、曾我祐成と時致兄弟によって仇討ちされた鎌倉時代の武将・工藤祐経(すけつね)の屋敷跡で、文永8年(1271)に日蓮上人が佐渡に流されていた時に、祐経の孫の日昭上人がi一門の教化統率に当たった「浜の法華堂」がはじまりとされる。弘安5年(1282)に越後の太守風間信濃守信昭公が開基となり、日昭上人が妙法華寺を開山した。妙法華寺はその後越後に移り、それから伊豆国玉沢に移った。そして、元和7年(1621)に日潤上人により實相寺が再建された。

日昭上人は、承久3年(1221)に下総(千葉)に生まれ(母親は工藤祐経の娘)15歳で出家、比叡山で学び日蓮上人が建長5年(1253)に立教開宗した時に弟子となった。日蓮六老僧の筆頭として日蓮上人の生前歿後に鎌倉で布教し、元享3年(1323)百三歳で入寂。開基の信昭公は幼い時、鎌倉で日昭上人の教えにふれ、その法力によって長寿を保ちこれが緑となって日昭上人の一字をもらって、信昭と号したといわる。本堂右横の道を奥に進むと墓地があり、石段を上がった正面に日昭上人の墓がある。
工藤左右衛門祐経は、歌舞音曲に通じ文治2年(1186)4月静御前が鶴岡八幡宮で白拍子の舞を行ったときに鼓を打ったといわれ源頼朝に重用された。建久4年(1193)5月28日、頼朝が富士の裾野で行なった巻狩の最後の日の深夜、曾我兄弟が祐経の寝所に押し入り、祐経は父の仇として兄弟に討たれた。
なお、巻狩(まきがり)とは鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟である。
山門の入り口右側に、「日昭尊者濱土法華堂霊跡」の木札が架かっている。山門を入ると、正面にこぢんまりとした本堂がある。創建時の本堂は明治初年に大火で焼失、その後再建されたのである。本尊は、一塔両尊四士で、南無妙法蓮華経と書かれた一塔を中心に、釈迦・多宝如来の両尊、四菩薩が祀られている。寺宝は、木造日蓮聖人坐像、木造日昭上人坐像、木造三日月大月天子立像など。
ささやかであるが良く整備された境内には、アジサイ、タイサンボクなど咲く花も多く、静かで落ち着いた雰囲気がある。
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