長寿寺(ちょうじゅじ)

鎌倉市山ノ内1520

臨済宗建長寺派 宝亀山と号す

鎌倉公方の足利基氏が、父尊氏の供養のため元享3年(1323)から延元元年(1336)の間に、足利尊氏の屋敷跡に寺を創建した。尊氏は高氏であったが、鎌倉幕府滅亡後、建武中興の大功労者として後醍醐天皇の名「尊冶」から「尊」の一字を賜り尊氏と改名。開山は、円覚寺の二十九世、建長寺の三十七世の住持を勤め、晩年はこの寺に隠棲した古先印元で、寺名は尊氏の法名「長寿殿」から名付けられた。当初は七堂伽藍を備えた大寺であったが文安5年(1448)に火災にあったと古文書に記されている。現在は山門と観音堂・書院が残るだけの小さな寺である。

石段を上ると茅葺きの山門があるが、観光目的の拝観を禁止するため門は閉じられており、境内に入ることはできない。この寺と「茶屋 かど」の店にはさまれた道が、鎌倉七切り通しの一つ「亀ヶ谷坂切り通し」で、坂を登って行く亀が急坂のため途中でひっくり返ったのでこの名前が付けられたともいわれている。

寺域には、奈良市忍辱山町にある真言宗御室派の忍辱山円成寺の多宝塔を大正時代に改造移築した観音堂がある。室町時代の様式を残し柱なども面取りされており、格天井には天女が描かれている。本尊は、木造観音菩薩立像で、桐の一本彫。左右の外陣には、寄木造玉眼入りで室町期作という木造古先印元坐像と衣冠束帯の木造足利尊氏坐像が安置されている。

書院は大正時代の建物で、クリアガラスの建具などはその時代のもので、書院前には石庭がある。白砂の庭に「空・風・火・水・地」を表す梵字の植え込みがあり、こちら側が此岸(現世)で、向こう側が彼岸を現しているという。
境内裏山にあるやぐらには、足利尊氏の遺髪が埋葬されているといわれる五輪塔があり、歴代住職の墓も並んでいる。

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