臨済宗建長寺派 宝亀山と号す 鎌倉公方の足利基氏が、父尊氏の供養のため元享3年(1323)から延元元年(1336)の間に、足利尊氏の屋敷跡に寺を創建した。尊氏は高氏であったが、鎌倉幕府滅亡後、建武中興の大功労者として後醍醐天皇の名「尊冶」から「尊」の一字を賜り尊氏と改名。開山は、円覚寺の二十九世、建長寺の三十七世の住持を勤め、晩年はこの寺に隠棲した古先印元で、寺名は尊氏の法名「長寿殿」から名付けられた。当初は七堂伽藍を備えた大寺であったが文安5年(1448)に火災にあったと古文書に記されている。現在は山門と観音堂・書院が残るだけの小さな寺である。
石段を上ると茅葺きの山門があるが、観光目的の拝観を禁止するため門は閉じられており、境内に入ることはできない。この寺と「茶屋 かど」の店にはさまれた道が、鎌倉七切り通しの一つ「亀ヶ谷坂切り通し」で、坂を登って行く亀が急坂のため途中でひっくり返ったのでこの名前が付けられたともいわれている。 書院は大正時代の建物で、クリアガラスの建具などはその時代のもので、書院前には石庭がある。白砂の庭に「空・風・火・水・地」を表す梵字の植え込みがあり、こちら側が此岸(現世)で、向こう側が彼岸を現しているという。 |