臨済宗建長寺派、亀谷山 壽福金剛禅寺 鎌倉三十三観音第二十四番札所 源氏山を背にした寺域は頼朝の父源義朝の居館があったところで、頼朝が当初ここに幕府を構えようとした場所である。創建当時は七堂伽藍が備わり、14の塔頭を擁した大寺院であった。 源氏山を背にした寺域は頼朝の父源義朝の居館があったところで、頼朝が当初ここに幕府を構えようとした場所である。創建当時は七堂伽藍が備わり、14の塔頭を擁した大寺院であった。宝治3年(1249)と正嘉2年(1258)の大火で殆どの堂宇が焼失したが、幕府の保護により復興した。現在の仏殿は宝歴年間(1751〜64)の再建である。
外門から山門にいたる長い石畳の参道は、政子が頼朝から送られた鶴岡八幡宮の段葛のお礼として夫への思いを込めて造ったといわれ、その光景は大変美しい。この寺は現在中門までしか公開していないが、境内は開山当時を偲ぶ五百年を経過した柏槙の古木の枝葉が空を覆っている。寺の隣りに相馬千葉氏の鎮守、八坂神社があり、境内に横たわるタブの古木が、この寺の往時を偲ばせている。 山門から左手の道を上ると 仏殿背後に墓地があり、鶴岡八幡宮の初代宮司、笠崎氏、俳人高浜虚子、作家大仏次郎の墓がある。墓地を通り抜けると、墓地を囲む山壁のやぐらのには、南北朝期のものと想われる彩色牡丹唐草文様が描かれた跡が残っている。北条政子の標識がある左手のやぐらには、五輪塔が建つており、いつも花が飾られている。右手の唐草模様が彫られたやぐらには源実朝の墓といわれる五輪塔が建っているが、いずれも実際はお墓ではなく供養塔だと思われる。 |