高徳院(国宝鎌倉大仏)

長谷4丁目2−28

大異山 高徳院 清浄泉寺

釈迦の説いた無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部経をよりどころとしている浄土宗の寺で、本尊は国宝阿弥陀如来坐像(通称:鎌倉大仏)。

仁王門前左側の木立の中に2m程の石碑が建ち、「聖武帝草創東三十三国総国分寺」と刻まれている。江戸時代の享保年間(1716〜36)に東の総国文寺として建てられたもので、鎌倉期前は相模国分寺として海老名、国府津に置かれていたが、鎌倉時代になって西の奈良東大寺についで大仏のあるこの長谷の地に国分寺を置くのが当然と考えられるようになったからだろう。

正門両側の囲い中に赤と青の仁王が立っている。向かって右側のため口を開いた赤は悪い氣を吐く(ア)、左側の口を閉ざしている青は良い気を吸う(ウン)で、ア・ウンの呼吸の語源ともなっており、仁王は寺域に悪人を入れない守りの役目を担っているといわれる。門をくぐり左側の入場門を抜け参道に出ると、正面に、どしりと安定感があり気品の高い姿をした露座の大仏が鎮座している。

大仏像の建立は、東国に大仏を造ろうとした源頼朝の遺志を受け継ぎ、仕えていた稲多野局が頼朝の供養のため発願し、修行僧の沙門浄光が全国の庶民から寄付金を募り、暦仁元年(1238)に着工、6年後に木造の仏像と大伽藍が完成した。
宝治2年(1248)、台風により仏像・仏殿とも崩れてしまったため、浄光が再び長い年月をかけて献金を募り、建長4年(1252)に、一辺1〜2mの鋳型を下から徐々に接ぎ合わせて青銅の大仏が完成したが、原型作者も鋳物師も明らでない。

建武2年(1335)、更に応安2年(1369)の台風の被害は修復されたが、明応4年(1495)の大地震による津波で大仏殿は流失し、以来仏殿は修復されず露座のままの姿となった。その時の津波で寺の建物も流されたため長い間廃寺と化していたが、江戸時代の正徳2年(1712)に増上寺の祐天上人が豪商野島新左衛門の助けを得て大仏を修復し、弟子を遣して別当坊を建立、浄土宗寺院として中興開山したという。
修復された大仏は、完成当初は全身黄金箔で覆われ華麗だったといわれる。緑青色の現在の姿の中にその名残りの金色が僅かに残っている。頭部のつぶつぶは656個あり、螺髪が渦巻いており、額のこぶのようなものは白妾と呼ばれ白銀でできており、この世を照らす仏の光明を表現しているといわれる。大仏の前にある香炉は野島氏の寄進と伝わる。


大仏さまが立ち上がると24mにもなるといわれているが、大きさは

総高( 座台共) 13.35m 青銅仏身高 11.312m
体重 122,512kg 面長 2.35m
眼長 1.00m 肩長 1.24m
口広 0.82m 耳長 1.90m


拝観料200円(体内見学20円)
 

大仏の内部は空洞になっており、狭い階段を上って胎内に入ることができ、頼朝の守り仏や祐天上人像が祀られている。現在は風化が激しいために体内の途中で行き止まりになっているが、750年前の大仏に直接触れる感動を味わうことができる。大仏の裏には享保21年(1736)に鋳られた台座の蓮弁が四枚残っており、その後に大仏建立に奔走した稲田野局の供養塔がある。境内の奥には元朝鮮李王朝の月宮殿を移築した観月堂があり、建築物としてもその評価が高く、徳川秀忠公の念仏仏だった聖観音像が安置されているという。その脇には、女流歌人の与謝野晶子が大仏の魅力を詠んだ歌碑が立っている。

 鎌倉や 御仏(みほとけ)なれど 釈迦牟尼(しゃかむに)は

        美男におわす  夏木立なか