鎌倉宮から二階堂方面に進み、左手の鎌倉カントリーテニスクラブと右手の理智光寺橋を越えて通玄橋を渡り更に進むと、左側に源頼朝が建立した鶴岡八幡宮寺・勝長寿院と並ぶ三大寺院の一つ、永福寺跡がある。
文治5年(1189)7月源頼朝が奥州平泉で見聞した中尊寺、毛越寺、無量光院などの荘厳さにうたれ、弟、義経、敵将藤原泰衡を始め、奥州攻めで討ち死にした敵味方の将兵の鎮魂のため、中尊寺二階大堂等を模して京都の平等院に匹敵した「永福寺」を建立したといわれる。建久5年(1194)に三堂が完成、吾妻鏡によれば、境内には、惣門、二階堂、阿弥陀堂、薬師堂、釣殿、多宝堂、鐘楼、など堂宇が並び幕府の御願寺として手厚く保護された‥‥と。
鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏一族によって保護され続けたが、応永12年(1405)に焼失し、江戸時代初期頃に廃寺となった。
東西約100m、南北約200m以上の平坦地と三方を取囲む山林・谷間を含めた地域が寺の中心域と考えられており、約36,000m2が史跡に指定されている。鎌倉市は、昭和58年度から平成8年度まで発掘調査を行ない、二階堂・薬師堂・阿弥陀堂などを容する壮大な伽藍や浄土庭園を確認したという。現在は国指定史跡になっている。
(注)勝長寿院
源頼朝が、文治元年(1185)9月に浄明寺1−23に父、義朝を供養するため建立したのが阿弥陀山勝長寿院で、義朝の首を埋葬し、阿弥陀如来像を本尊として大御堂を建立、壁面には浄土瑞相と、二十五菩薩が藤原為久の筆で描かれており、歴代の将軍が参詣していたという。