杉本寺(すぎもとでら)

鎌倉市二階堂903

天台宗 大蔵山と号し
坂東・鎌倉三十三番観音霊場第1番
鎌倉二十四地蔵霊場第4番・6番

聖武天皇の天平6年(734)の春に、光明皇后の御願により大臣藤原房前と行基上人に命じ行基上人が自ら一刀彫りした十一面観音菩薩像を本尊として創建・開山した鎌倉で一番古い寺。大蔵山観音、杉本観音と別称され、板東・鎌倉三十三ヶ所霊場第一番の札所として親しまれる古刹である。
光明皇后は、悲田院・施薬院などを設置し、慈悲にあふれる皇后として知られており、奈良の法華寺の十一面観音のモデルと言われている。行基(ぎょうき)は奈良初期(668〜749)の傑僧で、一説では百済系の帰化僧という。上人は、全国的におよそ49の道場(寺院)をつくり、橋を架け、潅漑用の用水路を設け、保育所設立など社会福祉事業を積極的に行ない、「行基菩薩」と呼ばれ民衆に慕われた。奈良の大仏の建立に貢献したが東大寺の大仏の完成を見ないで他界している。

文治5年(1189)11月23日の夜に隣屋より火災が起こったが、類焼の際、本尊三体自ら庭内の大杉の木の元に難を逃れたので、杉の本の観音と呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。またこの裏山に杉本城があったなどの理由で「杉本寺」の名が付いたといわれている。
観音堂背後の山に、三浦一族の杉本太郎義宗が築いた杉本城の跡がある。現在は立ち入り禁止区域となっているが、天然の急斜面や崖を活用したかなり広範囲な中世の山城であったと考えられる。
建久2年(1191)9月18日に源頼朝が寺を再興し、七堂伽藍、観音堂を寄進したが、七堂伽藍は、倒壊・消失し、観音堂だけが現存している。

細い石段の両脇に「十一面杉本観音」と書かれたいくつもの幟(はた)が目に入る。細長い階段を上り信者の貼り札のある仁王門をくぐり、更に上ると、右手に大蔵弁財天、その奥の山の中腹に千二百年前に建立した草葺き屋根の観音堂がある。

観音堂に祀られている十一面観音像は、一体は天平時代の行基上人作(市重文)、中央は仁寿元年(851)に僧円仁・慈覚大師(じかくだいし)作(国重文)、右側は鎌倉中期に恵心僧都(えしんそうず)作(国重文)で、三体がご本尊として内陣に安置されている。ご本尊の一体は下馬観音と呼ばれ、寺伝によると「此処の門前を馬上のまま通ろうとすると必ず馬から落ちてしまう。そこで、北条時頼の時、大覚禅師が観音さまに覆面をしたところ、それからは落馬がなくなった‥‥。」と。また、建長寺の開山大覚禅師がこの観音堂に参籠し、尊像を拝し祈願し所持していた袈裟で行基上人作の慈眼を覆ったことから「覆面観音」と号され頼朝時代より秘仏となった。陣内には頼朝公より寄進された運慶作の7尺の十一面観音立像、山門仁王像(運慶),大蔵弁財天像・地蔵菩薩(運慶作)が祀られている。なお、日本の寺院に残っている古い仏像は、その殆どが運慶と行基上人の作といわれている。前面には、昭和30年代に当寺住職が彫ったという三体の大型観音像と三十三化身仏観音が祀られ、観音霊場の雰囲気をみなぎらせている。

境内の右奥に熊野、白山大権現社があり、その前に六地蔵、鐘堂が建っている。建武4年(1337)、勤皇派北畠顕家の軍が朝比奈切り通しから鎌倉に攻め入り、杉本城に立て篭もって守備した鎌倉の足利方の守将、斯波(しば)家長の軍が敗れ、観音堂で自決したが、本堂前の古い銀杏の木の下に建っている五輪塔群は、その供養のために建てられたと伝わる。


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