はじめに

貞応元年(1222)2月16日、安房国(千葉県安房郡)小湊の漁村で一人の男子が誕生した。その男子は12歳の時生家に近い天台宗の古刹清澄寺で薬王丸と名付けられ修行の道に入った。仏法に疑問をいだき始めた16歳の頃に、道善房のもとで剃髪して、是聖房蓮長と命名され諸国へ遊学の旅に出た。鎌倉で四年間修行ののち比叡山で勉学に励む。そして30歳前後から京都の諸寺を巡歴した。比叡山に帰ってから1年ほどの間に「真実の仏教は天台宗と真言宗の二つで、その優劣は法華経と大日経とのいずれかがすぐれているかに帰着する‥‥。」そして法華経の中から「南無妙法蓮華経」の七文字の題目が法の集約であり、上行菩薩が現れてそれを広めるとの結論に到達した。叡山から故郷に帰った蓮長は、建長5年(1253)4月28日の暁に、清澄山頂で「南無妙法蓮華経」の題目を10回ほど唱えたという。

「第一回法難」

蓮長は、禅や念仏は法華経を放棄する邪教だと攻撃したため、地頭の東条景信に殺されそうになったため故郷を去り鎌倉に逃れた。建長5年(1253)に鎌倉松葉ヶ谷に草庵を建てた蓮長は、「日蓮また日月と蓮華のごとくなり」と自らを日蓮と名乗り、この鎌倉で日蓮宗という宗派を誕生させたのである。小町大路で辻説法を始めた日蓮は、文応元年(1260)に「立正安国論」を書き上げ、時頼の近臣、宿屋光則を通し時頼に進献したが時頼はこれを無視した。その1ヶ月後に日蓮の諫言に腹をたてた念仏者たちが草庵に放火し乱入したが、日蓮は裏山に逃れ難を逃れた。

「第二回法難」

立正安国論を書いて激しい布教活動を行い他宗を批判した日蓮(41歳)は、北条氏の怒りにふれて弘長元年(1261)5月12日朝琵琶小路で捕らえられ、問注所での取り調べもなく由比ヶ浜に連行され、伊豆に流されることになった。日蓮は沼ヶ浦から船出したが相模湾のしけのため、川奈の沖合い俎岩(まないたいわ)へ置き去りにされた。潮が満ちてくると海中に沈む岩の上で日蓮は大声で「南無妙蓮華経」のお題目を唱えていた時、付近で漁をしていた漁師の舟守弥三郎が舟をこぎ寄せ日蓮を救ったという。日実上人は、船守弥三郎の子といわれている。

「第三回法難」

伊豆流罪を赦免された日蓮は弘長3年(1263)2月22日鎌倉に戻ったが、翌年の文永元年(1264)に故郷の母の病を見舞い、病気回復の祈願をされたところ病は快方に向かった。同年11月11日、天津の工藤吉隆の招きに応ずる途上、何かの機会に‥‥と、日蓮の命をねらっていた地頭東条景信に、小松原で襲撃を受け弟子の一人が殉死、二人が重傷、日蓮も眉間に傷を負い左手をうち折られたが、鬼子母神が出現して、その救護によって一命が救われた。

「第四回法難」

下総に暫らく滞在した日蓮は再び鎌倉に戻ったが、50歳の文永8年(1271)9月12日、鎌倉松葉谷の草庵で幕府に捕らえられ、市中引回しのうえ龍の口刑場に連行された。翌13日子丑の刻(午前2時)、日蓮を土牢から引き出し、敷皮石の上に座らせ、斬首の準備を整えた。その時雷が鳴り豪雨となって、江の島の方から満月のような光りものが飛んで来て役人の目が眩み処刑は中止され、日蓮は佐渡へ流刑となった。

文永11年(1274)2月に流刑を許された日蓮は、身延山の領地を持っていた地頭の南部実長の招きにより、同年5月17日に隠遁、鷹取山の麓の西谷に草庵を構えた。
弘安4年(1281)11月24日に堂宇を建築し、「身延山久遠寺」と命名した。四回の法難を逃れた日蓮は、弘安5年(1282)年9月8日、病身を養うためと、両親の墓参のために常陸の国(現在の茨城県)に向かったが、旅の途中の10月13日、武蔵池上の信者宅で入滅、時に61歳であった。その場所に建てられたのが現在の池上本門寺で、日蓮宗大本山となっている。日蓮聖人の遺骨は、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との遺言により祖山と呼ぶ身延山に祀られている。

(妙本寺境内の日蓮聖人像)

その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承されている。約二百年後の文明7年(1475)第十一世日朝上人により、西谷から現在の地へと移転し伽藍も整備され、後に武田氏や徳川家の崇拝、外護を受け、宝永3年(1706)には、皇室勅願所ともなっている。


「参考」

日蓮は弘安5年(1282)年10月8日に、日昭(にっしょう)、日朗(にちろう)、日興(にっこう)、日向(にこう)、日頃(にっちょう)、日時(にちじ)の6老僧を本弟子と定めた。
日蓮が決めた日蓮宗の総本山は、山梨県の身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)である。日蓮の重要な遺跡と宗門史上顕著な沿革のある寺院を霊跡又は由緒寺院と呼び、その伝統により大本山又は本山の称号を用いている。

日蓮宗大本山法華経寺(ほけきょうじ)
日蓮が松葉ヶ谷の草庵の焼打に遭われた時に、信者であった若宮の領主富木常忍公(のちの当寺第一祖日常上人)と千葉・市川中山の領主、太田乗明公は日蓮を中山の領地に招いて百日百座の説法御弘通をお願いした。その際、日蓮は自ら釈迦牟尼仏を安置し、開堂入仏の式を挙げたが、これが日蓮が最初に開いた寺、日蓮宗大本山法華経寺である。その後、第三回法難で、日蓮は眉間に傷を負ったが、鬼子母神が出現してその救護により一命が救われ、中山に避難された時に養生のかたわら鬼子母神の尊像を自ら彫刻開眼された。現在は、中山の鬼子母神さまとして天下泰平、五穀豊穣、万民快楽、子育守護等の祈願成就の御尊体として広く全国信徒の信仰を集めている。常修殿日蓮宗荒行堂では、全国の日蓮宗の寺から派遣された僧により、毎年11月1日より2月10日までの百日間、日蓮直授の大荒行が行われる。そして成満の荒行僧により、2月11日に鎌倉の日蓮ゆかりの長勝寺で水行が行われ、この行事は一般の参拝者に公開されている。

日蓮正宗(しょうしゅう)総本山大石寺
日蓮が入滅した後、身延の地頭波木井実長が、仏法に違背する行為を重ねたため、日蓮の本弟子の日興上人は、正応2年(1289)の春、本門戒壇の大御本尊をはじめ一切の重宝を持ち出して門弟とともに身延山から離れ、翌正応3年10月、地頭の南条時光から寄進された富士上野の地に大石寺(たいせきじ)を建立した。以来当代67世日顕上人に至る700有余年、日蓮正宗総本山が日蓮聖人の教えを正しく伝えていると主張している。


日蓮ゆかりの寺巡り

鎌倉駅東口の正面の道を進むと若宮大路に出る。鶴岡八幡宮の第二鳥居の右側の通路の海岸寄りすぐ傍に、「安産子育産女霊人」と刻字された石柱が建ち、階段を上がった所に朱色の門があり、ここが、「おんめさま]と親しまれている大巧寺である。



大巧寺(だいぎょうじ)
小町1−9ー28
長慶山と号し、日蓮宗系単立寺院

源頼朝が、十二所にあった祈願所大行寺で平家追討の作戦を練ったところ、平家に大勝したため、寺名を大巧寺と改め、元応2年(1320)にこの地に移設したのがこの寺の始まりである。大行寺は真言宗の寺だったが、日蓮の弟子、日澄上人が日蓮宗に改宗し、長慶山大巧寺と号して開山し今日に至っている。

朱色の門をくぐると右側にはビルが建っているが、細い参道の両側には多種類の草花や花木が植えられてある。8月から9月にかけては参道にタマスダレの白い花が咲き誇り、美しい光景を目にすることができる。参道を突き当たり左に曲がると本堂のある境内に出る。

(写真は、若宮大路に面した山門入り口)

室町時代に、第五世住職日棟上人が難産で死亡した産婦の霊を慰めるため、安産の神として産女霊神(うぶめれいじん)を本尊として祀ったことから、安産祈願の寺として 通称「おんめさま」と呼ばれるようになり、妊婦の参詣人が多い。


小町通りに面した正門を出て左に200m程進むと、道路の右側に柵に囲まれ、石柱や石碑が建っている日蓮上人辻説法跡がある。



日蓮辻説法跡(つじせっぽうあと)
(小町2−22−11)

建長5年(1253)5月、鎌倉松葉ヶ谷に草庵を建てた日蓮上人が38歳の時、草庵から毎日小町大路の街頭に出て、道ゆく人々に「煩悩菩提・生死即涅槃」「妙法蓮華経」と唱え、人生のいろいろな悩みや執着はそのまま悟りだと思いなさい、法華経を信ずることは、武士にあっても「罪業を捨てずして仏道を成じます。成仏とは自分をよく知ることです。」と法華経の正しいことを説いていた。雨の日も風の日もこの辻に現れて、「政治が正しくなければ国も庶民の生活も安ずることができませぬ」また「為政者が邪教を信じ、法華経をないがしろにすれば”自界叛逆・他国侵逼難”となって日本は滅亡する」と予言した。


辻説法を行っていた場所は柵に囲まれ、中には石碑が立ち並び、腰掛石が石碑の下に残されていいる。

碑文
此邊ハ往昔ニ於ケル屋敷町ト商家町トノ境ヲナス地點ニ位シ幕府ニ近キコトトテ殷賑ヲ極メテ所ナリ 建長五年五月 日蓮聖人房州ヨリ鎌倉ニ来リ 松葉ヶ谷ニ草庵ヲ結ビ日ニ日ニ此邊リノ路傍ニ立チ弘通ノ為メ民衆ニ對シ獅子吼ヲ續ケシ阯ナリトテ 世ニ辻説法ノ舊蹟ト傳ヘラル 

昭和十一年三月建  鎌倉町青年團


鎌倉を南北に結ぶ道路であった小町大路は、武家屋敷と商家町との間にあったため、常に人通りが多く大変賑わった所だったという。



日蓮上人辻説法跡から小町大路を鶴岡八幡宮方面に進むと、道路の左側に鎌倉七福神の一つに指定された壽老人を祀る妙隆寺がある。



妙隆寺(みょうりゅうじ)
小町2−17ー20
日蓮宗 叡昌山と号す

この寺一帯は源頼朝に信を得た千葉介次郎常胤((恒武平氏)の別邸跡で、子孫の千葉大隅守平胤貞(のちに出家)が先祖追福のため、至徳2年(1385)に七堂伽藍を建立して寺を創建、妙親院日英上人を迎え開山した。第二祖の久遠成院日親上人は、応永34年(1427)の冬、21歳の時に当寺のお堂前の池で寒中百日間の水行などの修行を積み、京に上って日蓮が書いた立正安国論を時の将軍足利義教に献じ悪政を戒めたため幕府に捕らえられ、弾圧を受けて、水、火、熱湯ぜめの拷問にあい、舌端を切られ、焼き鍋を頭に被せられる極刑を受けた。それでも自説を曲げず法華経弘通につとめ「なべかむりの日親」の名を残して、長享2年(1488)9月に京都本法寺で82歳の生涯を終えた。

山門をくぐり境内に入ると正面に真新しい本堂、左に庫裏がある。旧本堂は620年前に建立され、関東大震災で被害を受け補修されながらの建物であったため、日蓮宗開宗750年を記念して新築され、平成18年6月7日に落成法要が行われた。
本堂には、日蓮大聖人像(木像江戸時代作ー市文化財)、釈迦如来像(木像室町時代作)、日英上人と日親上人像(木像寛永11年作ー市文化財)などが祀られている。


境内を入って本堂右前にある祠には、鎌倉七福神の一つに指定された欅の一本造りの「壽老人」の像が祀られてあり、正月は参拝者で賑わう。

本堂と祠との間、お墓に寄った所に日親上人が100日間の水行を行った「日親上人行法御池の霊跡」がある。池の向側には日親上人石像が安置されている。

妙隆寺を出て、再び来た道を戻り、海岸方面に向かうと通りの突き当たり角の右側に、鎌倉七福神の一つに指定された夷神を祀る夷堂のある本覚寺がある。



本覚寺(ほんかくじ)
小町1−12ー12
日蓮宗 妙厳山と号す

寺域は幕府の裏鬼門にあたることから、源頼朝が守護神の夷神を祀るため夷堂を建てた場所である。龍ノ口での処刑を逃れ佐渡へ流刑された日蓮が、文永11年(1274)に刑を許されて鎌倉に戻り、この夷堂に滞在し再び布教を始めたという。なお、その夷堂は明治6年の神仏分離令により隣の蛭子神社に移管された。

この寺は、日蓮のあとこの地で布教を始めた一乗院日出上人が、永享8年(1436)に足利基氏の援助を受けて創建開山された。二世住持の行学院日朝上人が身延山で修行を積み、身延山参詣の困難な関東の信者のために宗祖日蓮の御真骨を当山に分骨し、将軍足利義教の援助により分骨堂を造った。それ以来「東身延」と呼ばれるようになり、土地の人はこの寺を「日朝さま」と呼んでいる。

境内には玉砂利が敷かれてあり、本堂、鐘楼、分骨堂が立ち並ぶ。本堂には釈迦三尊像が祀られてある。鎌倉時代後期の刀匠として有名な岡崎五郎正宗は、日蓮の弟子であったため、この寺に墓が造られ、二代目貞宗の墓もあることから、料理人の崇敬者の参詣が多い。


本堂の右手には昭和56年に再建された八角形の夷堂があり、独特の形状は印象深い建物で、鎌倉七福神の恵比須さまが祀られている。毎年1月9日が宵えびす、1月10日が初えびすで、着飾った福娘が境内のあちこちで見られ、福銭やお神酒が参拝者に振舞われ、商売繁盛や好景気を願う人々で賑わう。









本覚寺の正門を出て、夷堂橋を渡り大町1丁目方面に直進すると妙本寺がある。



妙本寺(みょうほんじ)
大町1−7
日蓮宗本山 長興山と号す

この寺は、比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)が開基となり、北条氏に滅ぼされた比企一族の菩提を弔うため、源頼朝の乳母であった比企禅尼の息子能員(よしかず)の屋敷跡に文応元年(1260)に建立し、日蓮聖人の弟子日朗が開山した。「妙本寺方丈」の大きな木札が目に入る。祇園山に囲まれた静寂な広い境内は、濃緑の杉木立に包まれており、「杉の寺」としても有名。


総門をくぐり、杉の巨木が立ち並ぶ長い参道を進み、石段を上るとその正面に二天門がある。境内正面奥に、本尊として日蓮聖人像を祀る祖師堂(本堂)があり、左手には釈迦如来を祀る霊宝殿がある。浄行菩薩像の自分が病んでいる場所と同じ所をタワシで洗い清めるとご利益があると伝えられ、参詣人の信仰を集めている。境内には日蓮を助けたといわれる帝釈天王の白狐像が祀られ崇敬されている。

境内の右側の天然記念物指定の大銀杏の下に、第二代将軍源頼家、若狭局とその長男、一幡の袖塚と呼ばれる苔むした五輪塔の墓がある。さらに、右手の山際には比企一族の墓と伝わる五輪塔群が立ち並ぶ。奥の墓地には文暦元年(1234)9月27日に32歳で死去した頼経夫人、ヨシ子の墓と伝わる宝篋印塔がある。寺域の左奥には、一幡の死を悲しみ若狭局が身を投げ蛇と化したと伝わる井戸と、その蛇を寺の守護神として祀った「蛇苦止明神」の祠が建っている。

左手の山合いの墓地には、ミッドウエイ沖海戦で、米軍の攻撃を受けた軍艦から部下を全員下ろし、沈んで行く船のブリッジに自らの身体を縛り、運命を共にした艦長の加来止男海軍少将や、明治の日本海々戦で連合艦隊第二艦隊司令長官であった上村彦之丞海軍中将の大きな五輪塔の墓などがある。

追記
第二代将軍源頼家は、寿永元年(1182)8月12日に、頼朝と政子の長男として、ここ比企ガ谷で生まれた。比企能員の叔母で、養母だった比企局(尼)が源頼朝の乳母となったのが縁で、比企禅尼の娘が乳母となって育てられた。そして、比企能員の娘若狭局を妻とし、長男一幡と二男公暁が生まれた。比企家は源氏と関わりが深い一族であったが、勢力の拡大を恐れた北条時政が後継者問題を口実に攻め滅ぼした。

建仁3年(1203)9月2日、名越の釈迦堂谷の北条時政宅に法事にかこつけて招待された比企能員は、待ち構えた北条氏の武士に捕らえられその場で刺し殺された。残された比企一族は、一幡の屋敷小御所にたてこもったが、大軍に攻められ、火をかけられて一幡も死亡。伊豆修善寺に幽閉された源頼家は元久元年(1204)7月、山中で23歳の生涯を終えた。こうして、比企氏一族は北条氏との争いに敗れ、その姿を歴史の表舞台から消すことになった。比企の乱で難を逃れた当時2歳であった三郎(のちの比企能本)が、のちに日蓮の弟子となって本寺を創建したのである。
北条政子と北条家に育てられた三代将軍源実朝は、27歳の承久元年(1219)に源頼家の遺児、公暁に鶴岡八幡宮で暗殺されてしまった。1歳だった妹のヨシ子は鎌倉四代将軍(藤原氏初代将軍)藤原頼経の正室となっている。鎌倉将軍の初代から四代まで、時代の梶を取った尼将軍北条政子の不可解な行動や権力を考えながら探訪するのも面白い‥‥のでは。


妙本寺を出て小路を左に進めば、「ぼたもち寺」の名で親しまれている常栄寺がある。


常栄寺(じようえいじ)
大町1−8
日蓮宗 恵雲山と号す

源頼朝は、由比ヶ浜の千羽鶴の放鳥を遠望するためにこの寺の裏山に展望台を作った。第六代将軍宗尊親王の近臣で、印東次郎左衛門尉祐信の妻、理縁尼(後の妙常日栄)が山麓に住んでいたことから「桟敷の尼」と呼ばれていた。

寺の縁起によると、「この寺は俗にぼたもち寺という。日蓮聖人は当時の仏教の誤りを正し、国の乱れを救わんとして立正安国を主張してやまなかったので幾多の迫害をうけた。文永8年(1271)9月12日龍の口法難に際し、この地に住んでいた桟敷の尼が、日蓮聖人に胡麻のぼたもちを捧げたことは有名な美談物語である。

仏天の加護奇蹟により聖人は龍の口法難頸の座をまぬかれたので後には頸つぎのぼたもちと言われ、七百年後の今日においてもなお毎年9月12日御法難会に際し、当寺より住持、信徒儀を正し唱題のうちに片瀬龍口寺の祖師像に胡麻の餅を供えるのを古来よりの例としている。ぼたもち寺といわれるのはこのためである。」

この故事により、慶長11年(1606)日詔上人が桟敷尼の名にちなんで常栄寺を建てた。本尊は三宝祖師。山門に、「ぼたもち寺」の木札がかかっており、境内には、「これやこの 法難の祖師に萩のもち ささげし尼が すみしところ」の碑が建っている。法華経信仰の厚かった尼夫妻の墓は境内にあり、桟敷大明神としてこの寺に勧請されている。境内は狭いが花が多く、農の神の使いといわれる白狐を祀る稲荷社が併祀されている。

龍の口刑場で処刑されようとした日蓮が、奇跡的に刑を免れたのは、桟敷尼が差し上げたぼたもちのご利益と、毎年9月11日と12日の9時から15時頃まで、日蓮法難の故事にならいぼたもち供養が行われ、日蓮ゆかりの龍口寺や妙本寺の日蓮聖人の像にぼたもちが供えられる。尼がぼたもち供養に使用されたという木鉢と所持していた鉄奨壷(おはぐろつぼ)はこの寺に保管されており、お盆代わりに使われたといわれている鍋蓋は龍口寺に霊宝として残っている。

常栄寺を出て大町2丁目方面に進み、下馬から大町四ツ角方向のバス道路を左に進むと、浄土宗の安養院があり、更に進むと妙法寺がある。



妙法寺(みょうほうじ)
大町4−7
日蓮宗 楞厳山(りょうごんざん)と号す

この寺域は、建長5年(1253)日蓮聖人が安房より松葉ヶ谷にこられた時、はじめて草庵を建て鎌倉での布教の拠点となったところで、草庵は日蓮に反感を持つた武士や僧らによって文応元年(1260)に焼き討ちされた。
草庵跡には日蓮を開山とする本圀寺が建てられたが、北条幕府が滅び、政治が鎌倉から京都に移った興国5年(1345)3月、四世日静上人の時代に光厳天皇の勅諚によって京都六条に東西二町・南北六町にわたる広大な永代寺領を賜り、鎌倉松葉ヶ谷から京都へ立正安国・国祷護国の大道場本圀寺として移遷された。


延文2年(1357)に第九十六代後醍醐天皇の第一皇子、大塔宮護良親王の子、妙法房日叡が本圀寺の跡地に妙法寺を建立した。護良親王(もりながしんのう)は、建武2年(1335)の中先代の乱で足利氏によって幽閉され、足利尊氏の弟、直義の家来淵野辺義弘に殺されたが、この時親王の身の回りの世話をしていた藤原保藤の娘、南の方が生んだ子が楞厳丸(りょうごんまる)で、成長して僧籍に入り日叡と名乗り、この寺の山上に父母の墓を建て弔ったのである。

この寺は、勅願寺として江戸時代に第十一代将軍徳川家斉公や諸大名が帰依した。本堂は文政年間(1818〜29)に肥後藩主細川家が建立した総ケヤキ造りで、寺宝となっている日蓮上人坐像や本尊の釈迦三尊坐像が安置されている。天井や欄間には極彩色の「絵や彫刻が施されているといわれているが、非公開となっている。

境内の一角に下記の墓碑が建っている。

薩摩屋敷事件戦没者の墓

このお墓は慶応三年(1867)十二月廿五日江戸の芝三田で起った薩摩屋敷焼討事件で戦死した薩摩方、幕府方両軍の人々の遺骨を収めたもので、明治維新直前の江戸を物語る貴重な史料であります。
もと江戸芝三田(東京都港区芝三田)の薩摩藩島津家屋敷跡に建てられた当山支院清正公堂の境内にありましたが、平成七年(1995)九月一日三井不動産株式会社の厚意により、当地に移されたもであります。

平成十年九月一日

松葉谷 妙法寺

仁王門をくぐり、この寺が「苔寺」と呼ばれる由来となった美しい苔の石段を上ると、法華堂、鐘楼があり、その上の石段を上った山上に日叡上人と南の方の墓がある。右の山の上は宮内庁が管轄している大塔宮の墓がある。山の中腹に建つ法華堂は1810年頃に水戸徳川家が建立したと伝わる古刹で、その寺域は大塔宮御霊廟まで続く。



妙法寺を出て名越踏切方面に進むと安国論寺がある。





安国論寺(あんこくろんじ)
大町4−4
日蓮宗 妙法華経山と号す

建長5年(1256)創建の古刹。文応元年(1260)日蓮が39才の時、ここの小庵で「立正安国論」を就筆したという。山門をくぐると境内には奥州磐城平城主内藤右京亮藤原義綱が、正徳6年(1716)に贈った燈篭など多くの大名が寄進した遺跡が並んでいる。天然記念物指定の山茶花の老木の背後に「帝釈尊天」と掲額の本堂がある。

(注)帝釈尊天はヒンズー教の神を守る武将で、のちに釈迦に帰依し仏教を守る神となった。

本堂前に立つカイドウは天然記念物で、本堂横には「師孝第一」と掲額のある日朗上人の茶毘所がある。「師孝」とは親孝行と同様に師を仰ぐの意で、日蓮の一番弟子として師に尽した日朗を讃えたものといわれる。その前の崖の下には「松葉ヶ谷日蓮上人遺跡」の石碑があり、裏山には、日蓮が松葉ヶ谷焼き討ちの法難の際、白猿に袖を引かれて避難したと伝えられる洞窟が聖地として保存されている。
本堂裏には財界の重鎮であった土光敏夫の墓があり、いつも線香の煙が漂っている。墓地から裏山に上れば下に名越の町と長勝寺が望まれ、山の嶺は名越の切り通しに続いており、日蓮が法性寺に逃げた山道である。


安国論寺を出て名越踏切を渡ると長勝寺がある。



長勝寺(ちょうしょうじ)
大町4−4
日蓮宗 石井山と号す

弘長3年(1263)に日蓮が伊豆の配所から鎌倉に戻ってきた時に、この地の領主・石井長勝が日蓮上人に帰依し日除と名乗り、邸内に小庵を建て寄進した。貞和元年(1345)に日靜上人が復興し、石井長勝の名にちなんで山号と寺号を石井山長勝寺として開山したと伝わる。

大きな門に「帝釈天山南方増長天王は病を消除し、北方毘沙門天王は夜叉の害を除く」と書いてある。広い境内の奥に本堂があり、本尊として日蓮上人坐像が祀ってある。帝釈天大堂には、松葉ヶ谷法難の時に、帝釈尊天の使いである白猿に日蓮上人が救われたことから、帝釈尊天が祀られている。

本堂前の中央に、洗足池から昭和41年(1926)に移された高村光雲作の「知法恩国」と刻まれた高さ8メートルの 大きな日蓮像が建っている。インドのヒンズー教の神が仏を守護する教えに習ったのか、左には大増天王、その後に大廣目天王(多聞天)、右に太持国天王、その後に毘沙門天王の四天像が脇を固めて建っている。
法華三昧堂といわれる祖師堂は、五間堂という鎌倉時代独自の建築様式で関東最古。堂内には日蓮上人坐像や、県や市の重要文化財に指定されている大壇、鰐口、鍵盤などが安置されている。

境内の右端に「一道清浄」と刻まれた石の水槽があり、全国の寺院から派遣された百人以上の僧が中山法華経寺で百日間の水ごもりなどの荒行を行なった修行僧の数名が、2月に揃って寒水を浴びる寒中荒行は鎌倉の名物ともなっている。その横に檀家の霊室である六角の久遠堂。左手の丘の上にある法華堂は、創建当時の建物でタイ国から渡来したという金色釈迦像が祀ってあり、その隣りには鐘堂がある。境内の片隅に朱色の晴着で飾られた六地蔵が建っている。 境内左手の丘に連なる墓地を通り、坂を下ると谷合に「日蓮焼打法難700年記念、松葉ヶ谷御難零場」の石碑と「忍難慈勝」と刻まれた日蓮像が建っている。


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