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前夜からの続き

第211夜から第215夜まで

第211夜 - ヒュームは身体のでかい人だった

前の209夜のヒュームの手紙のなかで、ストーンという言葉が出てきますね。当時の体重を測る尺度のことです。1ストーン(stones;〔pl〕)は14ポンド(=6.35kg)ですから手紙のなかの5ストーンでは31.75kg.となります。31kgも痩せたとありますからにはもともとヒュームはでかい人だったと推測されます。そしてヒュームはスミスのように慎重に出版を延ばしていると痩せていくこの身体はなくなってしまう、とユーモアを交えながらも最後の方でロンドンという町がでっかくなりすぎて不潔になったことをも指摘しているのは流石ですね(因みにヒュームはスコットランド人です)。このように一つの手紙を通して当時の時代背景が見えてくるのはとても参考になり興味深いものです。

第212夜 - 「孤高の哲学者」スミス

英国のアメリカ植民地について、スミスはどのように考えていたのでしょうか。アメリカの独立についての考察のために敢えて『国富論』の出版を遅らせたスミスではありましたが、こうして刊行された『国富論』の最後の文章は次のような表現で締めくくられています。

大英帝国のどの領土にせよ、帝国全体を支えるために貢献させられないというのなら、いまこそ大ブリテンは、戦時にこれらの領土を防衛する経費、平時にその政治的・軍事的施設を維持する経費からみずからを解放し、未来への展望と構図とを、その国情の真にあるべき中庸に合致させるように努める秋(とき)なのである。           (大河内一男監訳『国富論』)

しかしこれでは植民地問題の重要性を認識はしていたが、具体的な提案とはなっておりません。結局スミスの「アメリカ問題」は『国富論』以降の課題となって持ち越されるのです。しかも晩年のスミスは『国富論』よりも『道徳感情論』の推敲に力を注ぐようになっていきます。D.ウィンチという学者は、晩年のスミスについて次のようなエピソードを認めています。

スミスは彼の出版社に次のように語っている。”『道徳感情論』の最も重要な追補は、義務の感覚・・・と道徳哲学の歴史についての最終部です。”このとき、彼は62歳で〔スミスは1790年67歳で死去〕、”余生を極めて用心深く””ゆっくりと、ゆっくりし過ぎるほどの仕事”しかできなくなった、とこぼしている。 (D.Winch Riches and Poverty 1996)

このように、晩年のスミスは『国富論』よりもむしろ『道徳感情論』の推敲に力を注いだ節が見られます。ここからスミスを、「孤高の哲学者」(' a solitary philosopher ')と描くこともできましょう。

第213夜 - 再びスミスの「アメリカ問題」

ではスミスはアメリカの独立をどう考えていたのでしょうか。『国富論』では必ずしも明確にされなかったこの「アメリカ問題」についてスミスの覚書などからスミスの見解を推測することができましょう。スミスはアメリカの独立を容認していたと考えられます。しかしその仕方はアメリカとの連邦体制をとるという見解でありました。しかし、アメリカ側は次第に態度を硬化して、1778年12月2日の議会では、”・・・アメリカ合衆国が独立主権国家となるまでは、いかなる調停案も採用できない”という事態に至り、折角の連邦体構想は実現を見ませんでした。今日の観点から見ますと完全独立は当たり前かもしれませんが、当時のアメリカの完全な解放は、軍政の普段の費用や万一戦争が起こったときに要する莫大な費用などを考えますと、その費用は却って高くつき、またイギリスからの分断によって遭遇する植民地の大衆に不幸をもたらす、と考えられたのでした。これがまたスミスを’孤高の哲学者’と呼ぶ一因にもなったと考えられましょう。

第214夜 - Mr. 或いはEsq. の持つ意味

ヒュームからスミス宛の手紙について最後にもう一つ。それはEsq.の意味するものです。ヒュームの手紙の宛先は、Address. To Adam Smith Esq. となっています。今日ではMr.が常用されていますが、当時はMr.の他にEsq.(エスクワイア)も使われていました。両者は共にステイタス・シンボルとしての敬称でした。つまりジェントルマンである人物にだけ用いられたと推定されます。Esq.のほうはMr.よりも使われ方が少なく、ナイト(Knight)に次ぐ身分でした。
当時のイギリス社会は概ね4つの階層に分かれていました。

@ 貴族(爵位をもった)・・・イギリス・ジェントルマンの第1の階層
A 小貴族(ジェントリ)・・・ジェントルマンの第2の階層。ここにはナイト、エスクワイア、単なるジェントルマンが入る
B 市民(シティズン)、ヨーマン
C 支配することのない第4階層

興味深いのは第Cの階層です。古代ローマ人が「無産者」(プロレタリイ)ないし「その日暮らしの人間」(オペラーリィ)と呼んだ人びとで、レイバラー、貧しい農夫はもちろん、土地を持たない商人や小売業者、仕立業、靴屋、大工などあらゆる職人が含まれます。彼らはただ支配されるばかりで他人を支配することはないのです。
さて、問題のエスクワイアは上の分類の第Aの層に属します。つまりナイトの次の位でこの称号はまたミスター(女性の場合はミセス)とも呼ばれていました。彼らの専門職は、陸軍将校や医師、法律博士、貿易商などに従事していましたので、スミス宛にEsq.をつけたのは、さしずめ、スミス博士様といったところでしょうか。なお時代につれて本来のジェントルマンの地位は次第に大安売りされてエスクワイアとかミスターという称号も恒久的にジェントルマンで通るようになっていきました。

蛇足ですが、ジェントルマンといえば、その最大の特徴は、生産的な活動では身体を使わないということなので、これを逆から言いますと、ジェントルマンは非生産的な活動(レジャー)に専心した身分なのです。今日のジェントルマンは殆ど身体を使って働いているのと大きなイメージの違いがありますね。

(参考:ラスレット『われら失いし世界』近代イギリス社会史より)

第215夜 - 啓蒙主義とは何か

前夜まで多くのお話しを費やしてスミスやヒュームなどを登場させまたその時代を描いてきました。18世紀の思想は一口に言って啓蒙 The Enlightenment の時代と総称されます。それは「近代自由主義的ヒューマニズム」の源泉でありました。また啓蒙主義は進歩の思想でもあります。そこから啓蒙主義って何だか教養主義みたい、とのイメージが持たれ、事実これを批判した、例えば「ポストモダニズム」などが今日、主流の思想となっております。18世紀の啓蒙主義は何と言ってもフランス(ルソーやモンテスキューなどなど)で大きく花を咲かせましたが、その他にも経験主義、コモンセンスの国のイギリスではいわゆる「スコットランド啓蒙」と言われ、後世に多くの知的遺産を残しました。啓蒙主義を育んだ18世紀とはどういう時代であったのでしょうか。代表的な見解をここに紹介いたしましょう。

啓蒙の世紀のおいて、教育あるヨーロッパ人は新しい生命観に目覚めた。彼らは、自分たちが自然とおのれ自身とを支配しているというのびのびとした気分を味わった。疫病、飢饉、危険にみちた生活と早死、破滅的な戦争と不安定な平和ーすなわち人間存在という永遠の足踏み状態ーの容赦ない繰り返しが、批判的知性の適用によってやっとくずれはじめるかに見えた。・・・・・・(ピーター・ゲイ)

ただ、「ハテナ」には啓蒙主義のメジャー国フランスで勃発したフランス革命に啓蒙思想がほとんど貢献しなかったこと、オリエンタリズムが無視されていること、など総じて啓蒙主義の総括が今なお行われていないと私見では疑問な点が残されていると思っていますが・・・。

(参考:ロイ・ポーター『啓蒙主義』見市雅俊訳 より)

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