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前夜からの続き

第221夜から第225夜まで

第221夜 - 自愛心と一口に言っても

自愛と仁愛との違いは古くから論じられて来た問題です。アダム・スミスが『道徳感情論』で共感を、『国富論』では利己心を、それぞれ論じているのをどう説明するか、という議論が、いわゆる「アダム・スミス問題」と言われるものです。利他と利己との対立か調和か、を巡って興味ある議論です。富の追求(利己心)が社会全体の幸福と調和できるかどうか、というわけで、古典的な命題として今日でもなおしばしば話題にされています。「アダム・スミス問題」の一つの解決の糸口は、自愛心を、@静かな自愛心(calm selflove)と、A激しい自愛心(violent selflove)に区分して考えてみようとするのです。@は、”より高度な精神的手段”として「富と力」も求めることを是認しようとする考え、Aは、”貪欲と野心とが飽くなき欲望”になってしまうような「富と力」を求めることを否定する考えであります。事実、スミスの『道徳感情論』では、『国富論』でのselfloveに対し、驚くほど自己規律が要求されていることが見逃されてはなりません。

(参考 小柳公洋 『スコットランド啓蒙研究』 など)

第222夜 - 歴史における進歩

進化と進歩は前夜(216夜)にも紹介しましたほか、客観的か、主観的か、という観点からも大いに悩むところです。議論しだすと限りがありませんので今夜は、歴史学の碩学であるD.H.カー氏の名著のなかから次の言葉を引用してまとめと致しましょう。

”歴史における進歩は、事実と価値との間の相互依存および相互作用を通して実現されるものなのです。客観的な歴史家というのは、この事実と価値とが絡み合う相互的課程を最も深く見抜く歴史家のことなのであります。”

(E.H.カー 『歴史とは何か』 p.196)

第223夜 - ハサミの両刃

新古典派経済学の創始者(と言われる*)アルフレッド・マーシャルは、ものの価値が効用によって決まるか、それとも生産費によって決まるか、いずれかを論議することは、

鋏の上刃が紙片を切るのか、下刃が切るのかを論議するのと全く同じ道理であろう。

とやや皮肉まじりに述べております。つまりマーシャルが言いたかったことは、費用と効用は、二つともひとつの役割を演じているというものでした。この比喩の使い方が面白いのでどちらとも決めかねる問題でしばしばこのフレーズが用いられてきました。しかし、効用が価値を決めるか、費用(生産費用)が価値を決めるか、は、経済学上の重要問題でハサミの上刃か下刃などの比喩で済まされるものでは決してありません。現に経済学説では、限界効用学説ならびに労働価値説としていまなお盛んに議論が続いているのです。

*(と言われる)としたのは、通説です。反対にケインズはその師マーシャルを古典派経済学の最後の人として位置づけています。

第224夜 - レントは地代か?

つづいてA. マーシャルは、「消費者余剰」(consumer's surplus)という言葉を作り出しました。その造語の背景を「ハテナ」独特?の解釈で検討してみたいのです。
「ハテナ」語では、市場での交換は需要と供給がぴったり一致するところで均衡価格が決定される、とありますが、実際には、売り手は市場価格で期待以上の利益を得ているかも知れません。買い手もまた、自分が覚悟していた購入値段よりも低い価格で市場から購入するかも知れません(市場価格が思っていた価格よりも高かったときは購入を諦めると仮定します)。そうすると、市場価格というものはそれが競争のもとでも予想外の利益を売り手か買い手のどちらかにもたらすことがある、ということになります。そこでマーシャルは、交換が買い手にそのような利益ももたらすのは、差額レント、つまり社会的経済的景況に起因する利益は一種の地代(レント;rent)の考えに近いとして、準レントという考えを導入しました。そもそも交換に起因する利益に何で地代概念が入るのかの理由はここにあったのです。但し、マーシャルはレントという名は付けないでこれを「消費者余剰」と命名したのです。しかし以後の経済学説では、ここから発展して準地代はもちろん生産者余剰という用語も盛んに用いられるようになったのです。

第225夜 - 価格と価値

店頭に並ぶ商品にはどれにも値札(価格)がついています。ではその価格はそれに値する正当な価値を持っているかとなると、必ずしもそうとは言えません。商品が売れて初めて価値を持つ、つまり交換価値を持つ前の状態といえるかもしれません。たとえばデパートにあるあらゆる商品の値段がついているのにまだ購入されてはいません。ということは交換されない商品に価格がついているのです。とすると交換されて初めて価値が生ずるとすればこのような店頭価格は果たしてものの価値を持ったものといえるのでしょうか?「ハテナ」にははなはだコダワリを持つ問題です。こんなことばっかり考え込んでいますと、それこそ次のような皮肉を込めた批判が返ってきそうです。それは1972年に経済学部門のノーベル賞を受賞したケネス・アローの人生哲学を示した一文です。

あらゆるものの価格を知っていて何ひとつ価値を知らぬ人間を冷笑家(シニック)という。万物の中にばかげた価値を認めながら何一つとして市場の価格を知らぬ人間を感傷主義者という。

(ケネス・アロー 「私にも鷹と鷺の区別くらいは付く」のなかの引用文より。 M..シェンバーグ編 『現代経済学の巨星』下 より)

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