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前夜からの続き

第231夜から第235夜まで

第231夜 - 旅愁

前夜(226-227夜)で述べました漱石のほかに、西洋文化と日本のそれとの大きな隔たりを感じたもう一人の小説家がいます。その名は横光利一です。「ハテナ」の青春時代に感銘を受けた『旅愁』のなかで、主人公の矢代は、歴史の実習かたがた近代文化の様相を観察にパリにやって来てため息まじりに友人の久慈と共に次のような思いを投げかけます。

 渋い鉱石の中に生えているかと見える幹と幹との間に瓦斯燈の光りが淡く流れ、こつこつ三人の靴音が響き返って聞こえて来る。矢代はふとショパンのプレリュウドはここそのままの光景だと思った。しかも、その中を、腕を組まされている自分であった。
「日本にこれだけ美しい通りの出来るまでには、まだ二百年はかかるよ。僕らはここを見て日本の二百年を生きたんだよ。たしかにそうだよ。今さら何も、云うことないじゃないか。」
涙を浮かべて云うような久慈の切なげな言葉を聞いて矢代もも早や意見は出なかった。アンリエットの薔薇の匂いが夜の匂いのようにゆらめくのを感じながら、これが二百年後の日本にも匂う匂いであろうかと、心は黄泉(よみ)に漂うごとくうつらとするのだった。
文中のアンリエットは、久慈のガールフレンドです)          (現代用語に改めました)

この『旅愁』は、昭和12年から21年に至る約10年間、新聞や雑誌に掲載されました横光利一の代表作です。「ハテナ」も今から十年余り前、パリでエッフェル塔を眺めたとき全く同じ思いに囚われたことがあり、美しくも切なく懐かしい本の一つです。

(横光利一全集第八巻 河出書房新社 p.61-62.)

第232夜 - 古典派経済学への評価

今日でも古典派経済学は生きており、古典として或いは現代を考え直す契機として重要であることは言うまでもありません。困ったときには古典に帰れ、とよく言われますが、経済学の分野でも変わりはありません。ここでは古典派経済学をJ.S.ミルまでといたしましょう(ケインズはA.マーシャルまでとしております)。ミルの『経済学原理』の刊行は1848年(マーシャルのそれは1890年)です。一口に古典派といっても、時代、場所、多彩な学者の説はさまざまですので、それを巧みにまとめたエミール・ジャムの『経済思想史』に依拠します。ジャムは古典主義的概念のうち当時の論者たちの眼に重要と思われた項目を、6点ほど挙げていますが、さらに簡略して以下に記しましょう。
(1)人間の活動の動機が平凡であった。人間は個人的利益の追求によって行動するものと仮定した。20世紀初頭にその他の論者は、もっと利害にとらわれない非合理的な人間の動機をとり入れるようになった。
(2)「時間」の要因を無視した。古典派は、均衡を即時的と仮定していた。労働力や資本の移動には時間が必要であるのに、その研究は不十分であった。そのため資本の蓄積や経済構造の変化というような重要な要因を十分に考慮に入れなかった。
(3)古典派は制度の進歩を十分に研究しなかった。人間の意志については注意を払っていたが。
(4)人間が諸々の国民に結集しているという事実を十分に考慮していなかった。したがって、国民感情や社会階級といった重要性や閉鎖性などをほとんど認識していなかった。
(5)古典派は自らのなかに対立した意見の不一致をもっていた。例えば、価値を効用か生産費か、また利子は資本の生産性によって説明できるのか節約として捉えるのか、等々。貨幣ほど中性的なものはないという説などその典型であった。
(6)古典主義者たちは、自分たちが分析した世界は、改革可能なものであるのか、について解決を見得なかった。そして貧困の問題についても。

このような問題点を抱えながら、経済学は次世代(19世紀後半から20世紀)に引き継がれたのでありました。例えば、歴史学派、マルクス経済学、新古典主義経済学、限界主義学派、ケインズ学派などなどです。

(参考 エミール・ジャム 『経済思想史 上』より)

第233夜 - EUの行方

欧州憲法条約批准をめぐって難航が予想されています。フランス、オランダが否決。2005年6月16日には批准の最終期限2006年10月末を取り消し無期限に延長することになりました。これを受けて、デンマーク、スウェーデン、チェコ、アイルランドも批准を先延ばしする動きが出てきています。
このことは、EU連合がその傘下にある各国夫々の主権をどう統一するか、という根本問題にかかわることであるからだと思います。かつて3年前に「ハテナ」は「ヨーロッパ統合ーその理念と現実」(平成14年6月17日)と題する小論を書きこの懸念を表わしたことがあります。その触りの部分を少しばかり引用してみましょう。

一国内ですら、最近の民主主義的手続きの迂回性を巡る批判が多くの論説に見られている。ましてEU15ヵ国【現在加盟国は25ヵ国】を束ねる政策決定過程における民主主義的手続きはどのようにしておこなわれようとされるのであろうか。公的な秩序維持は、自由な経済活動における公正さと信頼性を確保するためのものであるが、いわゆる民主的な多数決ルールに基づくとき、果たしてそれはよく機能しうるであろうか?欧州議会には完全な立法権が付与されていないので、信頼しうる政策決定はいつ、どこで、いかなる根拠で行われるか?恣意的な政策決定を回避する第三者的かつ専門機関のレフェーリー制に求めるより他にあるまい。もし、民主的選挙による選出が最善を保証しないという民主主義の欠陥は、EU各国においてどう克服されるのであろうか?恐らく、迅速をせまられ、かつ各国の同意を得るという話し合い、根回しは、おそろしく民主主義の赤字を生み出すことであろう。(中略)

加盟各国は自国の通貨主義を放棄してユーロに統一したが、一方財政政策は各国の主権を残している。(中略)通貨は統一されたが、貨幣発行権は依然として国家に残されており、その裁量権も各国にある。(中略)

財政から分離して金融の独立性を強調した点は評価できうるとしても、構成国の財政赤字を埋めるのは結局当事国の自助努力しかない。そこにユーロ加盟各国の成長率の維持と財政均衡という重い課題を抱えてのスタートを切らされた、といえる。果たして各構成国が財政赤字や破綻を生じた場合、EUはどのような手段を取るべきか、この課題は依然として残されている、といえるかもしれないのである。

第234夜 - 効用と価値

商品を欲する私たちの効用は、その商品が増えるにしたがって一般には減少します。これは限界効用逓減の法則といわれるものです。そのときそれらの商品の価値はどうなるでしょうか?下の表は、よく引き合いに出されますが、価値と効用との違いを考えさせる格好の例です。これは、しばしば「価値のパラドックス」と呼ばれています。
単位数
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
限界効用
10
9
8
7
6
5
4
3
2
1
総効用
10
19
27
34
40
45
49
52
54
55
総価値
10
18
24
28
30
30
28
24
18
10

上表を簡単に説明します。最初にある商品の1単位の効用を10と置きます。この場合は単位が1ですから、限界効用も総効用も総価値も同じ10です。単位が増えて2単位になったとします。このときは限界効用逓減の法則によって2単位目の限界効用は1だけ減って9になるとします。総効用は、1単位目の 10 と 2単位目の 9 を足して 19 です。総価値は、限界効用の 9 が 2単位ですから、9×2 = 18 となります。単位が 3 になると限界効用はまた 1 だけ減って 8 、総効用は 10 + 9 + 8 = 27、しかし総価値はそのときの(3単位目の)限界効用 8 の 3 倍、8 × 3 = 24 となるでしょう。以下同じ様にして最後の 10 単位まで計算したのが上表です。
つまり、単位数が増える( 1 から 10 まで)にしたがって、限界効用は次第に減っていく( 10 から 1 まで)とき、総効用ではかると漸増しますのに、総価値との差は拡大します。総効用と総価値との乖離!これが価値のパラドックスなのです。さて、あなたは総効用の方を採りますか、それとも総価値の方を採りますか?

この説例は、フリードリッヒ・フォン・ヴィーザーという人によって示され、メンガーによって精緻化されました。            (エミール・ジャム『経済思想史 上』より)

第235夜 - エレガントな経済学

経済学が倫理や心理的要因を排除してその科学性を明確にした結果、次のような経済学の方法論が生まれます。その代表格はライオネル・ロビンズです。ロビンズはかの有名な『経済学の本質と意義』のなかで次のような考えを示しました。

経済分析は、・・・・・・与えられた種々なる事情のもとにおける選択の必要から生ずる結果の選択でなければならない。純粋力学において、われわれは物体のある種の与えられた属性の存在の結果を研究する。純粋経済学において、われわれは代替的な諸用途をもった希少な手段の存在の結果を研究する。
経済学的説明は、
一般的に経験されるきわめて基本的な事実を反映する単純ないくつかの仮説から始められる推論
したがって、倫理学、道徳学、技術学は経済学のものであり、
種々の経済財の相対的希少性に影響を与える所与の諸要因
を表わすものにすぎない、とされます。

かくして経済学は目的に対する手段の研究に集中し、目的自体は所与のものとされるのです。その結果いろいろな仮説から複雑精緻を極めた、エレガントな経済学が出来上がってしまいました。数理経済学などはその典型でしょう。

けれども経済学から、人間の欲望や人間の目的、非合理的な行動、利他・利己的性格などを排除する、すなわち、倫理学、道徳学などは経済学外からの所与の要因にすぎないものとするならば、その経済学は何と無味乾燥なものになってしまうか、と言いたくなるのが「ハテナ」の心境であります。

(参考:引き続きエミール・ジャムの『経済思想史 上』より)

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