豊かでどこへでも移動できる社会のなかでは、普通の人がお互いに助け合ったり面倒をみたりはしたがらないし、そのようなことが出来る環境ではなくなっています。根無し草のような大都市社会では、人間同士の同情に頼ることは出来ません。アダム・スミスが言った共感の原理(相手の身になって考えると共に相手の立場を自分のなかに取り込んで考える)は、残念ながら、活かされない世の中です。そうすると何が起こる?ミシャンは、「人間どうしの直接の同情にはもはや頼れないから、同情それ自体が制度化され」ざるを得なくなると論じます。では同情の制度化って一体何だろう?第一に、それは国家の膨大な職員によってなされる社会事業であります。第二は、「制度化された同情」は無責任の精神を助長・促進する、としてミシャンは次のような恐ろしい例を挙げます。「恐るべき環境、ますます神経症にかかりやすくなっている住民、家族崩壊の増加傾向、方向を見失った若者たち、少年非行、女子生徒の妊娠の激増―これらすべての見苦しい動向は社会事業職員に莫大な機会を提供する。そして、もっと予算をつけろ、社会事業職員の人員をふやせ、もっと相談センターをつくれ、もっと精神科のクリニックをつくれ、もっと科学的研究をやれ、との彼らの叫びを支持するのである」と。これはミシャンの痛烈な皮肉と批判だと「ハテナ」は受け止めています。一方、概してマスコミなどが採り上げるのはこのカッコ付きの論調のように見えるのであります。