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前夜からの続き

第251夜から第255夜まで

第251夜 - 同情の制度化?

豊かでどこへでも移動できる社会のなかでは、普通の人がお互いに助け合ったり面倒をみたりはしたがらないし、そのようなことが出来る環境ではなくなっています。根無し草のような大都市社会では、人間同士の同情に頼ることは出来ません。アダム・スミスが言った共感の原理(相手の身になって考えると共に相手の立場を自分のなかに取り込んで考える)は、残念ながら、活かされない世の中です。そうすると何が起こる?ミシャンは、「人間どうしの直接の同情にはもはや頼れないから、同情それ自体が制度化され」ざるを得なくなると論じます。では同情の制度化って一体何だろう?第一に、それは国家の膨大な職員によってなされる社会事業であります。第二は、「制度化された同情」は無責任の精神を助長・促進する、としてミシャンは次のような恐ろしい例を挙げます。「恐るべき環境、ますます神経症にかかりやすくなっている住民、家族崩壊の増加傾向、方向を見失った若者たち、少年非行、女子生徒の妊娠の激増―これらすべての見苦しい動向は社会事業職員に莫大な機会を提供する。そして、もっと予算をつけろ、社会事業職員の人員をふやせ、もっと相談センターをつくれ、もっと精神科のクリニックをつくれ、もっと科学的研究をやれ、との彼らの叫びを支持するのである」と。これはミシャンの痛烈な皮肉と批判だと「ハテナ」は受け止めています。一方、概してマスコミなどが採り上げるのはこのカッコ付きの論調のように見えるのであります。

(ミシャン『経済学の神話性』p.213〜215より)

第252夜 - 共感のパラドックス

いま二人の少年AとBが、二つのリンゴを見つけました。リンゴの一方は大きく他方は小さかったとします。少年Aが少年Bに言います。「君が選べ」と。するとBは直ちに大きい方を取ります。AはあわててBにこう言います。「君はアンフェアだ」と。「なぜ?」とBは尋ねて次のように言います。「もしぼくでなく君が選んだとすれば、君はどっちを取った?」。「もちろん小さい方さ」とAは答えます。するとBは勝ち誇って言います。「だったらなんで文句を言うんだい?君は小さい方を手にしたじゃないか」。―このセリフには次のようなパラドックスが秘められています。確かに議論ではBは勝ちました。しかしAは、自分なら小さい方を取るという選択をBも取るであろう、というBに対する共感を抱いていたとすれば、Bが大きい方を実際に選択したことによってAははげしく怒ってしまったのでした。すなわち、共感はお互いになかったということになります。もし共感があったとすれば、Bが大きい方を取ったことでAは怒ることはないわけになりますね。
アダム・スミスが共感の原理を互いに自分の内に取り込むことにより交換や市場の働きが公正に行われるということも、このように一見実現しそうにないパラドックスを生むというまことに厄介な問題を抱えていそうです。しかし、この事例は明らかに共感の原理が貫徹していない、と見るべきでありましょう。

(少年AとBの事例は、アマティア・センの『合理的な愚か者』より引用しました)

第253夜 - 投票の経済学

自分の1票を、自分の取り分を最大化するための戦略として行い実現すると期待して投票する人はまず居ないといってもよいでしょう。経済学では正直な投票が同時に取り分を最大化するための戦略となりうるような、投票手続きは存在しない、と分析します。実際、人々が自分の投票によって結果がどう変わりうると考えているかを示すのは困難でありましょう。経済学的に云う、「期待効用の最大化によって」投票が行われるのではないといえます。こう言うといかにも伝統的な経済理論とは相容れないものがありますね。エレガントな解法は投票にはなく、もっと泥臭い欲求に基づいた動機や、またそれと全く反対に、無関心のまま何となく好みの人に投票してしまう行動に依存するといったら経済学者の反論を受けるかもしれません。アマティア・センはこの点でも鋭い指摘をしています。センは、同上書(『合理的な愚か者』)で、「期待効用の最大化によって導かれるよりはむしろもっと単純な、たとえば真の選好を記録したいという欲求のみによって導かれている」と言っています。

第254夜 - 能力の差が分業の利益を生むのか、分業が能力の差を生むのか

各々の人間は元来能力に差があり、その差が分業を生み能力に応じて熟練や優位性を発揮するのだという説と、いやいや人間はもともと能力に目立った差などはなく、その差が生ずるのは分業によってであるという説、―この二つの説のどちらをあなたは支持しますか?能力差があるからこれを分業によって活かす、いや、分業が能力の差を生み出すのだ、という見解の相違をあなたはどう評価しますか?「ハテナ」は後者、すなわち、生まれつき人間の能力の差に目立った違いはない、差が出てくるのは環境の違いや分業など後天的なものによるものだという方を支持したくなるのです。そう考えないと平等、不平等の問題は解けないと考えるからです。やや我田引水になりますが、センは「基本的潜在能力の平等」Basic Capability Equality という考えを打ち出した人であります。

第255夜 - arm’s length

市場での交換においてある距離の適正さが必要であることを、arm's length (腕の長さ)という言葉で表現します。英和辞書では、”手を伸ばせば届く所に”、”ある距離をおいて”などと訳されています。市場での交換は、売り手と買い手の間が近すぎもせず遠すぎもしないある距離をもって行われるのがベターだということなのです。その間が遠すぎれば取り引きは成立しないと云うことは納得できますが、一方近すぎれば弊害があるということはどういうことなのでしょう?それは買い手と売り手の距離が近すぎますと、どんな取引条件を持ち出しても相手に逃げられることはないほどの距離なのです。これでは市場とはいえません。例えば資金を借りる場合、貸し手と借り手があんまり近すぎるとその貸し借りはいわばオンブにダッコで貸し手のいうなりになったり、或いは借り手が逃げられないというような関係では正常な市場取引とはいえないでしょう。このあまり経済学的な用語とは言いかねるarm's lengthは、しかし欧米では「腕の長さ」だけの距離を保った取引を行うという条項が加えられる場合があるのです。市場取引にはこのような距離感を保って取り引きすることがかなり重要な要件となるのです。

(参考:矢野誠『「質の時代」のシステム改革』より)

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