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前夜からの続き

第256夜から第260夜まで

第256夜 - 市場を守る基本原則

再び矢野誠氏に依拠して市場を守る四つの基本原則を掲げましょう。

第1原則: ルールの無差別性・・・どの市場参加者にも同じルールが適用されること。
第2原則: 私有財産権の保障・・・どんな財やサービスも、もともとの所有者が確定していて 、それを自発的に移転することができること。
第3原則: 自発的意思決定の保証・・・どの市場参加者にも自発的意思決定に基づいて市場に参加する機会が保証されていること。
第4原則: 情報の透明性・・・どの市場参加者にも同じ情報が入手可能であること。

そして矢野氏はそれぞれの原則について詳述されています。一見して上の四つの原則は、公理のようにみえますが、各原則の間に相反する事象が生ずることが問題になるでしょう。例えば、ルールの無差別(第1原則)を許すことと自発的意思決定を保証(第3原則)することとの間には相矛盾する事態が生ずる怖れがあります。競争が却って独占を生むように強者の自発的意思決定が弱者の市場参加を排除することになってしまいましょう。また情報の透明性(第4原則)も極めて重要な原則ではありますが、すべての市場参加者にそれを可能にすることは理想ではありますが実現性はかなり乏しいと「ハテナ」は云わざるを得ません。なぜなら例えば、会社経理の粉飾のようにそれが犯罪として確定するまでは透明性を市場参加者は知りえないのは最近発生したエンロンの例に見られるとおりでしょうし、第3夜で採り上げた”レモンの市場”もまたその情報の困難性を物語るものでありましょう。

(矢野誠、同上書を参考、特にp.151.)

第257夜 - インデンチャード・サーヴァント

以前第127夜(高橋是清は奴隷だったか?)で触れました年季奉公人である indentured servant について今一度採り上げたいと思います(127夜では高橋是清の伝記の殆どが彼の若い頃アメリカで奴隷となったとあるのは誤りで正当には indentured servant であった、と「ハテナ」は考えるというものでした)。17、8 世紀にアメリカに渡った多くの人々はインデンチャード・サービスという長期雇用契約の下で働きました。インデンチャード(indentured)という言葉の起こりは、当時、2枚の雇用契約書を重ねて爪などで凹ませたマークをつけ、雇用主と被雇用者が一枚づつ保管したことから生じたのです。indent を辞書で引きますと、ラテン語で「歯をつける」の意味に由来しており、・・・にぎざぎざを付ける、(正副 2 通に作成した契約書などを)のこぎりの歯の形に切る、などを意味しています。このような年季奉公人はわが国でも江戸時代に存在していました。だがその場合は、年季明けには独立した職人になることが想定されていました。親方によってのれん分けされるような制度でありました。ところが明治・大正期になると例えば『女工哀史』(細井和喜蔵)に見るように年季明けに親方になるといった可能性はなくなり、アメリカやそしてイギリスでも同様に苛酷な労働条件を強いられることになっていきます。今夜はたまたま矢野誠氏の『「質の時代」のシステム改革』を読んでいましたら、このような主旨のことが書かれていましたので、追補の形で再掲載することとしました。因みに矢野氏は、このインデンチャード・サービスを、「一山買いによる労働の搾取」と名付けて労働者の数にたいして雇用主の数が小さい場合は、雇用契約は労働者にとって非常に不利になり、このような形態を、雇用主と被雇用者の間に大きな相対的交渉力の格差を生むと分析されています。

第258夜 - サッチャーの言葉

立法・司法・行政の三権が分立していることが民主制議会の基本であるのは言うまでもないことですが、意外に各部門が明確に区分されているとは言い難いこともあります。例えば立法府はその役割を十分に果たしているでしょうか。何か事が起こると行政の対応の遅れに帰せられますが、そもそも立法府でやらなければならない職責を行政府が担っているかのような感を抱かせるように思われます。

最近面白い事例に出会いました。それはヒッグズという学者が当時の首相サッチャー(Margaret Thatcher)の言葉を引用しています。引用の背景は、コンピュータの出現によって情報の自由化を求める運動家たちに対して応えたものでありました。

私たちの憲法の下では、大臣たちは議会に対して責任があります。(一部省略)法的アクセス権については・・・法廷に対する究極の決定に移されます・・・諸大臣の議会に対する説明責任はそれゆえ減少されます。さらに議会そのものさえ軽減されます。・・・私はあなた方のキャンペーン運動が示すような大きな憲法上の変化は、適切でもなく必要でもないと固く信じます。

三権分立について見事なまでの明確な考え方がそこには含まれていると「ハテナ」には思われ、さすがイギリス議会制民主主義、そしてサッチャーさんの確固とした信念に感心しました。

(Edward Higgs The Information State in England The Central Collection of
Information on Citizens since 1500 (2004) )

第259夜 - 信頼に対するアローの嘆き

ケネス・J・アローという卓越した経済学者は、”信頼”に trust という用語を当てていますが、わが国での trust の表現には、信任とか信託とかの意味で使われていますので、「ハテナ」は confidence と呼びたいと思います。
さて、その”信頼”は経済学ではどのように取り扱われ考えられているでしょうか。信頼というものは、その本来の意味からして経済財となることはできません。不換紙幣の流通も、互恵(grant)も、交換も、そして市場経済そのものが信頼を前提として営まれているように見えます。しかし信頼そのものが経済財や公共財となることはできません。何故なら、信頼を財とみなした途端に、その信頼財は、1,2,3,・・・n 個の存在を認めることになり、信頼財の間に効用の序列が生じ信頼財は一義的に決められなくなってしまいます。信頼は社会システムの重要な潤滑油でありながら、容易に購入できる財ではありません。こうして信頼の本質とは、アローが嘆くように、次の言葉で表わせます。

・・・もっと高い価値、そしてもっととらえにくい価値をもつと考えてよいものを取り上げてみよう。それは人々の間の信頼である。さて信頼というものが、 かりにほかの点をおくとしても、非常に重要な実用的価値をもっていることはたしかである。信頼は社会システムの重要な潤滑油である。それが社会システムの効率を高めることはたいへんなものであって、他の人々の言葉に十分に依存できるとするならば、さまざまの面倒な問題が取り除かれる。しかし不幸にして、信頼とは、非常に容易に購入できる財ではない。もしもそれを買わなければならないとすれば、買い入れられた信頼について、すでに若干の疑念が抱かれることになるだろう。信頼あるいはそれに類似した価値、忠実さ、あるいは嘘をつかないことといったような価値は、経済学者が 外部性 エクスタナリティ と呼ぶようなものの例である。それらも財である。それらも財貨であって、現存し実際的な意味をもち経済的な価値をもっている。それらはシステムの効率性を増加させ、より多くの財を生産し、われわれが高い評価を与えるところのいかなる価値についても、そのより多くを作り出させるのである。しかしそれらは、公開の市場において、それについての取引が技術的に可能であるような財ではないし、あるいは取引に意味があるような財でさえもない。
 このような指摘から結論として言えることは、分配上の正義の観点のみならず、効率性の観点からしても、 市場 マーケット より以上のなにものかが求められているということである。

(参考: ケネス・J・アロー『組織の限界』より)

第260夜 - ヴィクトリア女王への忠誠

19世紀の経済学者、政治学者、ジャーナリスト、銀行家・・・であったウォルター・バジョット(1826-1877)という人は、イングランド銀行に対する信頼は、女王に対する忠誠心のようなものである、と言っています。果たして国民は、イングランド銀行にあたかもヴィクトリア女王と同じように信頼を置き、忠誠を誓うことが義務なのでしょうか。そのような信頼を寄せることが善なのでしょうか。もし信頼を強要することになれば、却ってその時点で信頼そのものを失うことななるのではないでしょうか。仮にこのバジョットの本(『ロンバード街』)を読んで、イギリス王室に対する敬愛の念を深くする、などという人はおそらく居ないでしょう。とすれば信頼という概念は一見当たり前のようで、実はこれほど定義し難く、曖昧な概念はありません。しかし反面「信頼」という言葉ほどあらゆる人間の生活、コミュニケーション、さらには国家間にとっても最も重要で根底的な哲学上の概念でありましょう。

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