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前夜からの続き

第276夜から第280夜まで

第276夜 - モダンは二度死ぬ?

歴史上の重大な事件は二度起こる、といったのはヘーゲルでしたが、あの 9・11 事件もスペイン、イギリスと続き、日本の 9月11日は解散総選挙の日、幸い何事も起こらずホッとしました。アメリカのあの 9・11 は、別の角度で見ると実はモダンの二度の死を表象しているともいえます。それは「モダン建築の死」をも表しているからです。
第一の死: 1972年7月15日午後3時32分、処はミズーリ州セントルイス。悪名高きブルーイット・アイゴー団地がそのモダン建築への不満の故ダイナマイトによってコッパミジンに壊されたこと。
第二の死: 2001年9月11日午前8時48分、ニューヨーク世界貿易センタービルのテロによる爆破。
第一の死は、モストモダン建築の言葉で言えば静かに死亡したが、第二のモダン建築は、スペクタルとして死亡した。
そして第一と第二の建築デザインは、いずれも日系人であったミノル・ヤマサキによって設計された。

そしてグラウンド・ゼロに建てられる新建築は、ポスト・モダン派のダニエル・リベスキンド氏と聞く。リベスキンドは「ベルリン・ユダヤ博物館」の設計者として知られるが、この博物館の開館予定日はなんと2001年9月11日でありました(実際には9月13日に延期)。

なにやら因縁めいた話でありますが、この悲劇によってモダンの時代は終わったということがいえましょう。

(この事件は、岡本裕一郎『ポストモダンの思想的根拠 9・11と管理社会から引用しました)

第277夜 - 93パーセントの労働価値説

アダム・スミスもデヴィッド・リカードウもカール・マルクスもいずれも交換価値の唯一の源泉は労働であるといいました。でも、価値の全てが労働であるとは必ずしも言い切れません。リカードウは資本の貢献度を挙げそれが6〜7パーセント位と見積もりました。後のノーベル賞学者のジョージ・スティグラーは、リカードウの労働価値説を「93パーセントの労働価値説」と呼んでいます。なぜ100パーセントの労働価値説ではないのでしょうか?その鍵は「抽象的に」という言葉にあります。

・・・労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用なる性質は消失する。したがって、これらの労働の異なった具体的な形態も消失する。それらはもはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働に、抽象的に人間的な労働に集約される。(『資本論』)

この「抽象的に」にという言葉の捉え方如何が、労働価値説を支えるのか、それを放棄することになるのか、の分かれ道になるのではないか、と「ハテナ」は見ていますがいかがでしょうか。

第278夜 - 原書題名の意訳

この前の第274〜275夜で原書和訳の悪事例を挙げましたが、今度は原著作の題名意訳の好事例です。始めにバジョットの『国民の起源ーその形成に関する社会学的考察ー』。その原題は、Physics and Politics. 副題に、Thoughts on the Application of the Principles of 'Natural Selection' and 'Inheritance' to Political society. とあります。訳者は大道安次郎という人であります。原題を直訳すれば『物理学と政治学』でありましょう。これが何故『国民の起源』と訳されたのか? また副題も原題が『自然選択と遺伝原理の政治社会への適用についての考察』とでもなりましょうか。しかし訳では『(国民の)形成に関する社会学的考察』と違っていますね。しかし、訳者は実は原著のドイツ語訳から採用したのでした。その内容も進化論が説かれてはいますが、国民の起源を探究したもので、著書の内容に即してこの訳を採用したのであります。

もう一例を挙げましょう。有名なハイエクの『自由の条件』、気賀健三訳です。原題は、F.A.HayekによるThe constitution of liberty です。'constitution'を「条件」と訳した背景には、ちゃんと原著者に問い合わせて同意を得ているのです。著者の言いたい気持を伝える名訳だと今も、「ハテナ」は印象に残っています。

第279夜 - 花見酒の経済 日本版

落語の「花見酒」を用いて日本経済の虚構を突いたのが、笠信太郎の『花見酒』の経済でした。この書は今から約40年も前の1962年に出版されて、大変な人気を博しました。そのポイントを挙げる前に、落語の「花見酒」のあらましを紹介いたしましょう。
花見の席で酒を売っているのを見て、二人のおっちょこちょいの男がこれを真似て酒屋から2両で2升の酒を仕入れて四斗樽を担いで向島の花見会場をめざして行きます。その途中で、兄貴分は酒の匂いにたまらなくなり、売り物の酒だけれども金を払って飲むぶんには文句はなかろうと、借りた金のうち釣銭として用意してあった1貫(両が4,000円くらいで、貫は約400円くらいに当たります)を弟分に渡してコップ1杯分の酒を飲んでしまいます。それを見た弟分も飲みたくて仕方がなくなり、兄貴分から受け取った1貫を兄貴分に渡してコップ1杯の酒を買います。こうなると歯止めが効かなくなり、兄貴分が飲んだら次は弟分という繰り返しで、とうとう1貫の金を2人でやりとりしながら樽の酒を全部飲み干してしまったのでした。向島に着いたときには、樽には1滴の酒も残っておらず、へべれけに酔った二人は、本日は売り切れで調子がいいじゃないか、どれ売り上げを数えようとしますが、銭は1貫しかありません。全部売れたのに1貫しか残っていねえっていうのは勘定があわねえ・・・・・・ざっとこういったお話しです。
笠信太郎がこの落語に目をつけて『花見酒の経済』を書いたのは次のような日本経済のからくりを見破ったからでした。「高度成長に浮かれていていいのか?」というまさに60年代の日本の高度成長時代への警告でありました。銀行の信用が増大するさなか当時の消費需要の増大を「浮かれすぎ」と見て、「花見酒」を連想したのでした。何かを生産するのでなく、単に享楽的な消費はあたかもAの所得の一部をBへ、BのそれをCへというように懐の中のものの居所を変えるに過ぎない、と。

第280夜 - 花見酒の経済 外国版

この花見酒の経済によく似た事例はイギリスの文献にも見られます。J.S.ミルの初期著作集のなかにあります。ミルの代表作である『経済学原理』は、名著と言われていますが、「ハテナ」には独創性がなく例えばH.ソーントンの文章を殆どそのまま借りて長々と引用してあったりして、今一感心しないのですが、初期の著作のなかには鋭い分析が見られます。以下の文は、花見酒とそっくりですね。

人びとの懐中からより多くのものを取り去って諸君自身の快楽にそれを費やせば費やすほど、人びとはより豊かになるのだということを証明するようなもの、つまり、ある店から貨幣を盗み出す者は、その貨幣の全てを再び同一の店で支出するかぎり、自分の盗み取った商人にとっての恩人なのであり、その同一の行為が充分にしばしば繰り返されれば、その商人の財産を作るであろう、ということを証明するようなものだったのである。

この引用文の論題は、「生産に及ぼす消費の影響について」です。浮かれた消費を問題にする限り、「花見酒の経済」のイギリス版といってもよいでしょう。

(参考 『J・S・ミル初期著作集(四)』第二論文より)

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