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前夜からの続き

第281夜から第285夜まで

第281夜 - ノーコメント

通訳の権威である鳥飼玖美子さんの『歴史をかえた誤訳』のなかには、誤訳による大歴史的事件が豊富に語られていて誤訳の怖さを知らされるエピソードに満ちています。その一つに、日本の敗戦を告げるポツダム宣言受諾にまつわる誤訳?の歴史があります。大戦末期ポツダム宣言が発表され、日本が受諾するか否かを迫られたとき、時の首相鈴木貫太郎は、静観したい、という意味で、「黙殺する」という回答をしたのでありました。ところが連合国側では、これを”ignore”つまり「無視する」という言葉に翻訳しました。そもそもポツダム宣言は日本の出方を見ようとするものでありましたので、この「無視する」との回答は、”reject”(拒否する)と受け取られてしまい、日本の徹底抗戦の腹を知ってあの1945年8月6日、遂に広島に原爆が投下されたのでした。誤訳によって原爆投下を導いたと断定するには余りにも証拠不十分ではありますが、大事な外交文書の翻訳がいかに難しいかを如実に示す物語です。今なら殆ど日本語化した、”no comment”が適切でしょうが、当時はこのphraseはなかった、と鳥飼さんはコメント(comment)しています。

(鳥飼玖美子『歴史をかえた誤訳』新潮OH文庫より)

第282夜 - 反証可能性とは何か

反証可能性(falsifiability)という用語は、ポパー(Popper,K.R.)の専売特許で経済学の方法論には必ずといってよいほど、頻繁に引用される言葉です。しかし、これほど難解な定義もまたありません。最もやさしい解釈は、「すべてのカラスは黒い」という理論を証明しようとして実験や観察によってその正しさが証明されても、もとの理論、即ち、「カラスは黒い」が正しいことの証明にはならない。どんな実験や観察が繰り返されても決してその理論についての確実な結論は得られない、というものです。何故でしょうか?わたしたちの観察はときどきわたしたちを欺き、最善の装置を使っても正確でないことがあるからです。そこで、ポッパーは、先の例でいえば、「カラスは白い」と言うこと(=反証)が言えるとき初めてもとの理論の反証になるのだ、と主張するのです。でも最近の理論は仮説が確証されることを認めようとして非ポパー派のアプローチが好まれています。となると仮説というものの証明はどうやってする?証明自体にいろいろの説があっては、そもそも証明にはならないのではないか?と「ハテナ」は迷ってしまうのであります。

第283夜 - 気分のよい仲間

今は会社から離れて好きなことやボランティア活動に従事されている皆さんへ、次のメッセージを!
People who feel  気分のよい
Good About  仲間は
Themselves  
   
Produce  よい成果を
Good Results 生む

実はこのフレーズは、One Minute Managerの中からの引用です。上の「仲間」は同書翻訳では「部下」となっておりますが、このホームページをご覧になられている方の多くは、同好会やボランティアの仲間と一緒に活動されていられるので、「仲間」といたしました。時にはこの言葉を思い出して「仲間」たちとの絆を深められるよう願っています。

(Kenneth Blanchard, Spencer Johnson One Minute Manager

第284夜 - リスクと不確実性

リスクと不確実性の違いを明らかにしたのは、フランク・ナイトという学者です。彼によりますと、リスクという用語のなかに、二つの概念が混在していることを見てこれらを明確に定義したのです。つまり、リスクは「測定可能な」不確実性であり、一方、不確実性とは「測定不可能な」不確実性である、として次のように述べています。

リスクと不確実性は、確率を介して、次のように定義することができる。「リスクは、危険状態(ハザード)の結合であり、確率によって測定される。それに対し、不確実性は、信念の度合いによって測定される」と。換言すればリスクは世の中の状態(世態)であり、不確実性は心理の状態(心情)であるといえる。(フランク・ナイト『リスク、不確実性および利潤』)

余談ですが、このナイトの著の刊行は1921年。同年にケインズの『確率論』(Treatise of Probability)が出ています。この確率論は従来のような確率計算を論じたものではなく、ナイトの言うような意味での何が起こるか知りえない不確実性の事象を扱ったものです。だからTreataise of Probabilityは『確率論』ではなく『蓋然性論』とすべきだと言う人もいます。同年に出た両者の先陣争いはどちらに軍配が挙がるか?と詮索してみたくもなるのが、意地悪「ハテナ」の興味、それをさし措いても、1936年の『一般理論』より遙か前に出版されたこの書が未だに翻訳されないのは何故か?ケインズ研究者の怠慢!何をいうのか、悔しかったら原文で読め!ギャフン・・・・・・。

第285夜 - 革新への経営

次の警句は、かつて「ハテナ」が実務世界にいたときにメモしておいたものです。

上手な経営とは、企業機会に油断なく目を配り、即座にそれを認識し、間髪を入れずに追及する経営である。もちろんすべての革新が成功するとは限らない。しかし、革新に手をつけずにいて、気がついたら別の企業が大成功を収め、競走上の優位を獲得しているという場合に比べれば、失敗に終わったにせよ革新を試みる方が、ずっと危険が少ないのが普通である。
ある産業で支配力をもつ成功企業には、過去の名声に安住して現状に満足し、前と大きく異なった製品やマーケティング手法は混乱の原因であり、共食いすら引き起こしかねず、それゆえ採用に値しないものだと考えたくなる抜きがたい誘惑がある。支配的な企業にはまた、競争者と競争者のなしうることについて過小評価したいという誘惑がある。つまり「結局、彼らはわれわれの業績の足もとにも及ばない。彼らは要するに二流だ。恐れるに足らない」というわけである。しかし、このような受けとめ方は気分のよいものかもしれないが、誤りを招くのである。なぜなら、しいたげられた競争者は、大規模で自己満足に浸っている典型的な現状維持主義の業界リーダーに比べ、はるかに貪欲で、進んで危険を冒そうとし、変幻自在の行動をとる傾向があるからである。

(R.F.ハートレイ、熊沢孝訳『マーケティング・ミステイクス』より)

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