ガルブレイスは当時(大恐慌)の銀行家の姿勢を次のように辛辣に批判しています。
権力者が倒れるときには、彼らの過去の尊大さに対する怒りと現在の惨めな姿に対する侮蔑の念が一体となって、憎悪の感情を煽ることとなる。その対象となる権力者もしくはその屍は、およそありとあらゆる屈辱に耐えねばならなくなるのである。
当時の銀行家たちは、まさしくそのような目にあったのである。その後の10年間というもの、彼らは議会、裁判所、新聞、そしてコメディアンからのかっこうの餌食となりつづけた。それも、29年当時の行きすぎた気負いと派手な失敗のせいであった。銀行家というものは人気がある必要はない。健全な資本主義社会においては、よき銀行家というものはむしろかなり毛嫌いされるべき存在であろう。人々は、馴れ馴れしいお調子者にではなく、ノーと言える人付き合いの悪い人間にこそ、自分たちのカネを任せようとするものである。」(ガルブレイス『大恐慌』)
この末尾の言葉は、シュンペータ^にも同様に見られます。
時代と国によっては、銀行業者が全体的に水準に達しないことがある。というのは、実際上、才能と訓練にどんなに不足している人でも銀行業務に流れこみ、顧客をみつけ、かれ自身考え通りに顧客と取引することができるくらいに伝統も基準も欠けていることがある。このような国とか時代とかには、向こう見ずな銀行家がーこれに付随してまた向こう見ずな銀行理論がー発展する。このこと自体・・・・・・資本主義発展史を転じて、破滅史たらしめるに十分である、といって、銀行家は大衆にまるで人気がないときに一人前である、と喝破するのです。(ジュンペーター『景気循環論』)
また、バジョットも、イギリスのオーヴァレンド・ガーニィ商会の破綻(1866年)について、
〔オーヴァレンド・ガーニィ商会の〕これらの損失は、余りに向こう見ずで馬鹿げたやり方で生じたので、ロンドンシティで子供が金を貸したとしても、もっと上手くやれるだろうと考える位であった。この事例から、われわれは、長く培われてきた信用や、或いは確かに根付いた取引の慣習に余りにも固く信頼し過ぎではならない。(バジョット『ロンバード街』
歴史から得られる教訓は、このように豊富であるのに、一体人々は何故こうも歴史を忘れてしまうのでしょうか?
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