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前夜からの続き

第286夜から第290夜まで

第286夜 - マクドナルドとサンタクローズ

マクドナルド社は小売企業のなかでも最大の広告主に数えられています。”今日はいいことがある”などのキャッチフレーズを知らない人はいないくらいである。このような広告の効果はどのくらいか、それは一体成功しているのだろうか。1970年代の学童対象の調査の結果、96%がロナルド・マクドナルドを知っており、この数字に勝てたのは、サンタ・クローズだけであった、という。

("The Burger that Conquered the Country", Time September 17, 1973. 『マーケティング・ミステイクス』より)

第287夜 - 大恐慌の教訓

今から47年前に新米社会人となった「ハテナ」には、一つの思いを持って実社会に船出しました。それはガルブレイスが描く『大恐慌』ー1929年は再び来るのか?という書物にはまっていたからです。で、少しこの本のお話しをいたしましょう。あの「暗黒の木曜日」と称された1929年の大恐慌を書いた書物は沢山世に出たいます。特に今回の日本のバブル崩壊後には大恐慌と比較した著作が沢山出版されました。でも、その頃(昭和33年の頃です)は、ガルブレイスのこの本が唯一のバイブルのように思われ、感動して読みふけった思い出があります。以降彼は経済学術書はもちろん、経済論評、エッセイ、小説まで幅広く執筆していますが、「ハテナ」は、彼の代表作『豊かな社会』よりもこの処女作『大恐慌』に、より親近感を抱いています。ガルブレイスは、冒頭(序章)で次のように切り出します(長い引用になるので省いたところは・・・・・・といたします)。

歴史を語るにあたって、ことさらに理由づけをする必要はない。歴史みずからをもって語らしめればよい。だが、それはそれとして、1929年の出来事とその余波については、その記憶を人々の脳裏に止めておくことに特別の重要性がある。・・・・・・というのは、投機と破綻の繰り返しを防止してくれるのは、公的規制でもなければ、また、企業を起こす人々やブローカーたち、顧客筋と若い衆、市場操作に携わる連中、銀行家、ミューチュアル・ファンドのマネージャーたちといった人々の倫理観念が向上することでもないからである。防波堤となるのは当時の幻想とそれからの目覚めに関する記憶にほかならない。・・・・・・そしてその後の長い歳月を通じても、市場の動きを規定し、金融上の冒険を抑えこんできたのは証券取引委員会よりは、むしろ29年の出来事に関する人々の記憶だったのである。

(J.K.ガルブレイス『大恐慌』1929年は再びくるか!?牧野昇監訳より)

第288夜 - 悲観論と楽観論

大恐慌発生の1年前の1928年12月4日、クーリッジ大統領は一般教書のなかで述べた以下の報告は、「どんな憂鬱そうな議員たち」に対してさえ、安堵感を与えたことであろう。

合衆国の状況を鑑みるに、これほどまで喜ばしい展望のもとで議会が招集されたためしはかつて一度もなかった。国内には、平穏と満足があり・・・ここのところずっと、未曾有の繁栄がつづいている。外交面では、平和と相互理解に基づく友好とがある・・・

これが大恐慌の起こるほんのちょっと前のムードでありました。ガルブレイスはやや皮肉めいてこう述べています。「先行き悪いことが起きるかもしれないと指摘するのに、勇気も先見の明も必要ではない。勇気は事態が良好であるときに、これからはもっとよくなると言うときにこそ必要なのだ」と。これは、楽観的な予測が外れるのは罪が深い、という一方で、いつも悲観論ばかり述べる論者に対してはその予測が外れるのは許される、となればどこかの国のエコノミストのように悲観的にのみ見るほうが安全だという姿勢を批判しているようにも「ハテナ」には取れるのですが・・・。ガルブレイス独特の皮肉なんでしょうか。

(ガルブレイス 同上書より)

第289夜 - 銀行家を視る

ガルブレイスは当時(大恐慌)の銀行家の姿勢を次のように辛辣に批判しています。

権力者が倒れるときには、彼らの過去の尊大さに対する怒りと現在の惨めな姿に対する侮蔑の念が一体となって、憎悪の感情を煽ることとなる。その対象となる権力者もしくはその屍は、およそありとあらゆる屈辱に耐えねばならなくなるのである。
当時の銀行家たちは、まさしくそのような目にあったのである。その後の10年間というもの、彼らは議会、裁判所、新聞、そしてコメディアンからのかっこうの餌食となりつづけた。それも、29年当時の行きすぎた気負いと派手な失敗のせいであった。銀行家というものは人気がある必要はない。健全な資本主義社会においては、よき銀行家というものはむしろかなり毛嫌いされるべき存在であろう。人々は、馴れ馴れしいお調子者にではなく、ノーと言える人付き合いの悪い人間にこそ、自分たちのカネを任せようとするものである。」
(ガルブレイス『大恐慌』)

この末尾の言葉は、シュンペータ^にも同様に見られます。

時代と国によっては、銀行業者が全体的に水準に達しないことがある。というのは、実際上、才能と訓練にどんなに不足している人でも銀行業務に流れこみ、顧客をみつけ、かれ自身考え通りに顧客と取引することができるくらいに伝統も基準も欠けていることがある。このような国とか時代とかには、向こう見ずな銀行家がーこれに付随してまた向こう見ずな銀行理論がー発展する。このこと自体・・・・・・資本主義発展史を転じて、破滅史たらしめるに十分である、といって、銀行家は大衆にまるで人気がないときに一人前である、と喝破するのです。(ジュンペーター『景気循環論』)

また、バジョットも、イギリスのオーヴァレンド・ガーニィ商会の破綻(1866年)について、

〔オーヴァレンド・ガーニィ商会の〕これらの損失は、余りに向こう見ずで馬鹿げたやり方で生じたので、ロンドンシティで子供が金を貸したとしても、もっと上手くやれるだろうと考える位であった。この事例から、われわれは、長く培われてきた信用や、或いは確かに根付いた取引の慣習に余りにも固く信頼し過ぎではならない。(バジョット『ロンバード街』

歴史から得られる教訓は、このように豊富であるのに、一体人々は何故こうも歴史を忘れてしまうのでしょうか?

第290夜 - E.H.カーの警句

カーの古典的名著『歴史とは何か』の終わり近くで、こんな文章に出会いました。何か現代の世相を反映させているようですが、この名文の意味を味わって頂きたいのですが・・・僭越でしょうか。

時代が下り坂だと、すべての傾向が主観的になるが、現実が新しい時代へ向って成長している時は、すべての傾向が客観的になるものだ。

(E.H.カー 『歴史とは何か』 清水幾太郎訳 岩波新書 p.185)

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