前夜からの続き

第341夜から第345夜まで

第341夜 - 貯蓄銀行のこと

信用創造をしない銀行の始まりは、三つの銀行に代表されます。第一は、ヴェニスの銀行制度に見られます。当時の大銀行が積極的に貸し出しをし過ぎて、1584年には預金者への払戻しができなくなり、銀行の扉を閉めねばならなくなりました。そこで国立銀行(バンコ・デラ・ピアッツァ・デル・リアルト)が設立されましたが、この新しい銀行は貸し出しを認められず硬貨の預かりと両替、顧客間の決済手続き、簿記サービスの料金だけで銀行を維持するよう定められました。この銀行は繁盛しヴェニスの商業の中心となったのです。何故でしょうか?顧客よりの預かり金に対してこの銀行が発行する預り証に広い信用が得られたからです。ふつうなら預り証は額面の金貨より低い扱いを受けるのですが、そうではなかった。なぜなら当時の金貨にはたくさんの種類があり、質にばらづきがあったので、金貨を鑑定する専門知識が必要でした。そこでいちいち金貨を鑑定するよりも金貨の価値を正確に反映するこの銀行の預り証のほうが信頼され高い価値で流通された、と言われております。

第二の銀行は、アムステルダム銀行でした。1609年に設立されています。この銀行も預金を受け入れて保管するだけで、貸し出しはしませんでした。収入はサービス料だけでありました。まもなく支払のすべてはアムステルダム銀行発行の紙幣で行われるようになりました。この紙幣は金貨よりも評価が高かったのです。

第三の銀行は、ドイツのハンブルグ銀行で、2世紀以上も安全な預金という原則を守ったのでした。1813年にナポレオンがこの銀行を手に入れたとき、負債7,489,343マルクに対し、銀貨が7,506,956マルクあり、銀貨の方が負債よりも17,613マルク多かった記録があります。

ところが以上の三銀行ともその後は、貸し出し、つまり信用創造に走り、次いで支払準備が不足し、ヴェニスの銀行は、新しい銀行に吸収され、アムステルダム銀行はオランダ東インド会社に多額の融資を行って1790年に支払不能となりアムステルダム市に引き取られることになりました。最後のハンブルグ銀行は不幸にも外国の侵略(ナポレオン)のせいもあり1871年に清算されてしまいます。
上の三つの例から見られるとおり、支払準備率100% の健全銀行がいずれも信用創造という誘惑に勝てず、準備金の何倍もの貸し出しに走って破綻の歴史を残しています。確かに単に顧客のお金を預かって両替や決済サービスの料金だけで経営するのでは銀行の魅力に欠けますね。わが国でもバブル崩壊時の銀行の経営がおかしくなったとき、信用創造を行わない、”純粋銀行”という名でさまざまな提案がなされましたが、絵に描いた餅に終わりました。銀行の役割、使命は、良くも悪しくも信用創造機能を担っているからです。それだけに預金に対する支払準備を厚くして顧客に対する信頼を回復し、維持することがとても大切であることをこの例は教えてくれます。

(参考: G・エドワード・グリフィン『マネーを生みだす怪物』−連邦準備制度という壮大な詐欺システム p.216-219. より)

第342夜 - 不安限度

銀行が預金に対する支払準備金を手厚く持たなければならないことを最も早く力説した人はイギリスのウォルター・バジョット(Walter Bagehot, 1826-1877)というジャーナリストにしてエコノミストでした。彼は古典的名著『ロンバード街』を1873年に刊行して銀行の支払準備金の必要性を次のように述べています。

 パニックに対する最良の緩和剤は、銀行支払準備金が充分にあって、その準備金が有効に 使用せられるということを確信せしめることにある。

そしてバジョットは、この準備金の額をもって「不安限度」("apprehension minimum")という指標を掲げるのです。
現在もこの原理は生きていると「ハテナ」には思えるのですが、預金(銀行の負債)に対する準備金を例えば10%とすると、今日の考えでは、10%の準備金があるからその10倍は貸し出せるという、何だか転倒した考えが理論的にも認められ、それが信用創造なんだと考えられているのは、バジョットの理念とは逆さまになっていると言わざるを得ないのです。バジョットの不安限度というのはあくまで負債(預金)にたいして一定の準備金を持つべきであると考えたのであり、準備金があるからその何倍かの貸し出しができるという考えは決して持ってはいませんでした。

(参考: W. バジョット『ロンバード街』)


第343夜 -赤い盾のいわれ

赤い盾に五本の金の矢を鷲の爪に握らせているマークはロスチャイルド家の家紋であります。ロスチャイルドというと何かフランス語のようですが、ドイツ語から来ています。赤い盾はドイツ語で roth Schild (ロートシルド)です。これが英語読みではロスチャイルドとなったものです。またロスチャイルド王朝とまで言われたその出自は、18世紀半ば、ドイツはフランクフルトの金細工師が始祖でありました。その金細工師の店の扉に鷲のついた赤い盾の看板が下がっていたのです。始祖(マイヤー・アムシェル・バウアー)はのちにこの赤い盾に因んで苗字をロートシルドに変え、五人の息子を表わす五本の金の矢を鷲の爪に握らせたもので、この五本の矢、つまり息子たちが固い絆のもと、世界に羽ばたいてロスチャイルド王朝と言われるまでに席巻していくのでした。

第344夜 - お金にはナポレオンも勝てない?

ナポレオンは、政府が銀行家のマネーに依存すれば、状況を支配できなくなると言い切ります。何故なら、「与える手は受け取る手よりも上位にある」からです。また「金融業者には愛国心も慎みもない。彼らのたった一つの目的は儲けだ」と宣言して、銀行を信用せず借入れを拒否しました。しかし政府が資金を借り入れなければ早晩ナポレオンは敗退すると金融業者は読んでいました。イギリスとフランスとの戦いで、イングランド銀行は大量の不換紙幣を発行して政府に貸し付け圧倒的な軍事力にものを言わせました。勝敗の結果は、イギリスのウェリントン率いるワーテルローで勝利しました。ナポレオンが敗北したときのフランスの財政は黒字であったとは!

(このエピソードは、グリフィンの『マネーを生みだす怪物』 p.267-271 あたりの叙述を参考に脚色しました。)

第345夜 - ドルの起源

余りにドルの世界にどっぷりと漬かっていて、いったいドルという呼称の謂れはどこから来たのだろうか、などと立ち止まって考えることなどナンセンス!とおっしゃられるかもしれません。グリフィンの例の書物(前夜の)のなかで彼は、エドウィン・ヴィエイラという人から引用して次のようなことを述べています。

 通貨の歴史では、ドルの起源はシュリック伯爵が1519年にバヴァリアのヨアヒムズ・タールで つくらせた銀貨ということになっている。当時は「シュリックテンターレル」あるいは「ヨアヒムスターレル」と呼ばれた貨幣は、そのうち簡単に「ターレル」と呼ばれるようになり、これが「ダラー (ドル)」になったという。おもしろいことにアメリカ植民地のドルは英国ではなくスペインからやってきた。1497年のスペインの通貨改革により、レアルがスペイン銀貨の単位となった。(中 略)スペインドル(重量および純度がターレルと同じだったため)などと呼ばれた銀貨は、当時のスペインが占めていた商業および政治的な地位のおかげで、たちまち新世界の金融市場の主役になった。

そして1785年にトマス・ジェファーソンがこのスペイン銀貨をアメリカの正式な通貨単位として採用することを提案し、ドルが誕生したわけです。

(グリフィン、同上書 p.385-6)

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