信用創造をしない銀行の始まりは、三つの銀行に代表されます。第一は、ヴェニスの銀行制度に見られます。当時の大銀行が積極的に貸し出しをし過ぎて、1584年には預金者への払戻しができなくなり、銀行の扉を閉めねばならなくなりました。そこで国立銀行(バンコ・デラ・ピアッツァ・デル・リアルト)が設立されましたが、この新しい銀行は貸し出しを認められず硬貨の預かりと両替、顧客間の決済手続き、簿記サービスの料金だけで銀行を維持するよう定められました。この銀行は繁盛しヴェニスの商業の中心となったのです。何故でしょうか?顧客よりの預かり金に対してこの銀行が発行する預り証に広い信用が得られたからです。ふつうなら預り証は額面の金貨より低い扱いを受けるのですが、そうではなかった。なぜなら当時の金貨にはたくさんの種類があり、質にばらづきがあったので、金貨を鑑定する専門知識が必要でした。そこでいちいち金貨を鑑定するよりも金貨の価値を正確に反映するこの銀行の預り証のほうが信頼され高い価値で流通された、と言われております。
第二の銀行は、アムステルダム銀行でした。1609年に設立されています。この銀行も預金を受け入れて保管するだけで、貸し出しはしませんでした。収入はサービス料だけでありました。まもなく支払のすべてはアムステルダム銀行発行の紙幣で行われるようになりました。この紙幣は金貨よりも評価が高かったのです。
第三の銀行は、ドイツのハンブルグ銀行で、2世紀以上も安全な預金という原則を守ったのでした。1813年にナポレオンがこの銀行を手に入れたとき、負債7,489,343マルクに対し、銀貨が7,506,956マルクあり、銀貨の方が負債よりも17,613マルク多かった記録があります。
ところが以上の三銀行ともその後は、貸し出し、つまり信用創造に走り、次いで支払準備が不足し、ヴェニスの銀行は、新しい銀行に吸収され、アムステルダム銀行はオランダ東インド会社に多額の融資を行って1790年に支払不能となりアムステルダム市に引き取られることになりました。最後のハンブルグ銀行は不幸にも外国の侵略(ナポレオン)のせいもあり1871年に清算されてしまいます。
上の三つの例から見られるとおり、支払準備率100% の健全銀行がいずれも信用創造という誘惑に勝てず、準備金の何倍もの貸し出しに走って破綻の歴史を残しています。確かに単に顧客のお金を預かって両替や決済サービスの料金だけで経営するのでは銀行の魅力に欠けますね。わが国でもバブル崩壊時の銀行の経営がおかしくなったとき、信用創造を行わない、”純粋銀行”という名でさまざまな提案がなされましたが、絵に描いた餅に終わりました。銀行の役割、使命は、良くも悪しくも信用創造機能を担っているからです。それだけに預金に対する支払準備を厚くして顧客に対する信頼を回復し、維持することがとても大切であることをこの例は教えてくれます。
(参考: G・エドワード・グリフィン『マネーを生みだす怪物』−連邦準備制度という壮大な詐欺システム p.216-219. より)
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