前夜からの続き

第356夜から第360夜まで

第356夜 - 政府支出と増税

ケインズの政策は、不況期には思い切って政府の支出を増やして雇用を確保しつつ景気回復を図るというものでした。極端な例ですが、不況対策として目的を顧慮することなく単にピラミッドを作ってでも雇用を維持すればよい、とさえ述べました。こういう政策(fiscal policy)を採れば財政赤字になります。しかし景気が回復して税収が増えるときにその赤字を無くすれば良いという前提があったのです。
ところが好況時に過去の赤字を解消することは実際には困難でした。何故でしょう?好況期には人々の期待が膨らみさらに拡張しようとして緊縮策が採りにくいのです。とくに政治の世界では折角経済が上向きになっているときに緊縮予算を組むことは政治家にとっては人気を無くすので勢いソレイケドンドンとなってしまいます。
このことを憂い、批判した代表的なエコノミストの一人がJ.M..ブキャナンという人でした。ブキャナンは財政赤字に歯止めを掛けようとして好況期には、過去の財政赤字を削減することを義務づけ法律化しようと提案しますが、議会の承認が得られず嘆きます。彼の主張を一部聞いて見ましょう。
公共選択学派のメンバーによって展開された議論によれば、政治的行為者は、支出から引き出される便益は限界的に投票者の支持を増やす一方、課税からの費用は投票者の支持を減らすという理由で、支出を善、課税を悪とみなす。・・・・・・政治的行為者が支出増を赤字で調達でき、同期間における直接の増税を回避できるかぎり、投票者/納税者は・・・・・・将来の増税で現在の支出増の支払いをせざるをえない。・・・・・・しかし、現代民主主義における政治家は、任期が限られており、それゆえ限られた時間的見通しをもつ傾向がある。
つまり世に言う先送りということなんですね。

(参照: J.M.ブキャナン、G.K.ローリー、R.D.トリソン編 『財政赤字の公共選択論』)

第357夜 - ルーズベルトは均衡予算主義者?

アメリカの1929年に始まる大恐慌発生時の大統領はフーバーでした。そのときの大統領候補はルーズベルトで、彼はフーバーが予算を均衡させることができなかったことを強く非難しています。大不況が深刻になった1931年に彼の政権は大幅な増税を推進ーこれは「けたはずれの愚行」と呼ばれたものでしたーしようとしてとき、ルーズベルトもまた同じ関心を持っていました。この予算均衡主義者であったルーズベルトが大恐慌対策として「ニューディール」を打ち出し、その成功モデルとなったのは果たして積極財政者に転じたルーズベルトの方針転換だったのでしょうか?そうだとすれば均衡予算主義者から積極予算主義者への華麗なる転換ということでしょうか、そしてフーバーのみが恐慌無策者として非難されるのに対して「ハテナ」は違和感をおぼえるのであります。

第358夜 -ジャーナリズム精神

視聴率ばかりを気にするテレビ、刺激的な見出しの割には中身の薄い新聞、最近のジャーナリズムはこのような風潮に犯されているように「ハテナ」は感じます。そんななかでもう15年も前に岩波新書から出された『アメリカのジャーナリズム』(藤田博司著1991.8.)のなかで”問われるジャーナリズム精神”の言説が光っています。著者は次のように言っています。

・・・・・・視聴者の「知るべき」ニュースより「知りたがる」ニュースが優遇される。しかしニュース報道から否定的な情報が締め出され、肯定的な情報ばかりが伝えられるようになれば、現状肯定的な報道が支配的となり、権力の腐敗や社会悪を監視するというメディアの役割が著しく弱体化することは避けられない。そうなれば「三流のこそドロ」の背後にホワイトハウスの陰謀を突き止めた『ワシントン・ポスト』のウォーターゲート事件の取材の再現は、ほとんど望めなくなる。

(藤田博司:『アメリカのジャーナリズム』 岩波新書 p.215.より)

第359夜 - 新聞王ジラルダンの逆説

新聞王としてパリと世界を征服したジラルタンの言い草は一風変わった逆説を吐いています。鹿島茂氏の著した『新聞王伝説』によりますと次のとおりです。

・・・・・・ジャーナリズムの中核で戦い続けてきたジラルダンがジャーナリズム無力論を展開するのはいかにも腑に落ちない。ジラルダンは、ナポレオンIII世との確執に疲れて、シニスムに陥ったのだろうか。だが、それだったらなぜここでまたジャーナリズムに復帰したのか。この謎をとくためにはジラルダンの議論の続きに耳をかたむけてみなければならない。すなわち、ジラルダンはこう主張する。新聞は無力である。ゆえに、権力者が恐れるような影響力を新聞が世論に及ぼすことはない。影響力がなければ、これを罰すべき理由はない。したがって、新聞に自由を与えないでいる必然性はどこにもない。新聞は無力なのだから自由を与えていいのだ。一言でいえば、ジラルダンはナポレオンIII世に対し、新聞の無力さを理由に、言論の自由を要求しているのである。

(参考: 鹿島茂『新聞王伝説』 パリと世界を征服した男ジラルダン より)

第360夜 - 『風と共に去りぬ』のなかの人種問題

作家のマーガレット・ミッチェルはこの本のなかで、”ニガー”とか”ダーキー”という黒人の最も嫌う言葉を使っているそうです(原書で読んだわけではないので、そうです、というしかありませんが)。このように名作、かつ超人気映画のなかにも当時の、そして今なお人種問題と捉えて批判する人々は絶えません。一方、”ニグロ”への扱いはあっても、『風と共に去りぬ』のテーマは損なわれていなかったとし、むしろ南部の穏やかで家族的、貴族的なプランテーションが、南北戦争で破壊され、北部人に蹂躙されたことに敵意を抱く人もいます。「ハテナ」は敢えて誤解を恐れずに言うと、かつて10年前にアメリカを訪れたとき、北部のギスギスしたビジネス社会から南部、このときは同著の舞台のアトランタならぬ、ニューオーリンズを訪れて本当に心のやすらぐ思いをしたものでした。あのデキシージャズの発祥地で夜遅くまでジャズに浸り開放感を味わいました。そのニューオーリンズが昨年のハリケーンで壊滅状態になったのを誰よりも悲しんだものです。だから南部は好きなのです。といっても奴隷制度や人種差別に組するのでは決してありませんが。「ハテナ」自身この点アンヴィヴァレント(両義性)を抱いてしまうのです。強いて弁解すれば、1830年代に早くも見抜いていたトクヴィルの『アメリカの民主主義』のなかの次の言葉が慰めになるでありましょうか。

人種偏見は、奴隷制度がまだ存在している諸州よりも、奴隷制度を廃止してしまった諸州において強いように思われる。しかも、奴隷制度のかつてなかった諸州ほど不寛容なところはない。

(参考:青木冨貴子 「風と共に去りぬ」のアメリカー南部と人種問題ーより)

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