前夜からの続き

第361夜から第365夜まで

第361夜 - バジョットの名句-1. New Men

ウォルター・バジョット(W.Bagehot)の古典的名著『ロンバード街』(LOMBARD STREET)は、1873年に刊行され、その中には珠玉の名言で飾られた箴言が随所にちりばめられ、かつ今日にも通用する金融の原理が込められています。そのなかから現代になお通用すると思われる名句を何夜かにわたって紹介いたしましょう。なお宇野弘蔵氏の訳(岩波文庫)は大分古くなりましたので拙訳で掲げました。

イギリス商品の評判を傷つける理由を詳しく調べてみると、それは自分自身の金はほとんど持たず、銀行の’割引’によって借り入れた新規参入者の責任であることが明らかである。

When we scrutinise the reason of the impaired reputation of English goods, we find it is the fault of new men with little money of their own, created by bank 'discounts'.

ここでバジョットの使う new men新規参入者)の意味は、必ずしも明確には定義づけられていませんが、「ハテナ」の解釈は次のとおりです。シティが拡大するにつれ、自己資本を持たない新規参入者(new men)が借入資本を容易に用いて市場に現れる理由をバジョットはやや詳細に例示しています。要約すれば以下のとおり、新参の商人は旧来の商人に比し、借入により、自己資本利益率をはるかに高め旧来の商人を駆逐することになります。

(事例)

 
自己資本
利潤率
計上しうる利潤
旧来の商人
50,000ポンド
10 % 5,000ポンド
       
新参の商人
10,000ポンド 10% 1,000ポンド
  借入れ利率 5% △2,000ポンド
  借入金40,000ポンド 10% 4,000ポンド

すなわち、新参の商人の、計上しうる利潤は、1,000-2,000+4,000=3,000ポンドとなり、自己資本10,000ポンドに対する利潤率は30%になります。(旧来の商人の自己資本利潤率は10%)

バジョットは、どちらかというと、旧来の商人貴族(merchant princes)の洞察と熱情とに郷愁を抱いていましたから、このような new men には必ずしも共感をいだいていない、といえます。ところが、この new men を激賞する論者も現れます。ロイ・C・スミスは、その著『カムバック』で、バジョットの new men を高く評価して次のように言います。

・・・・・・1873年に、エコノミストの編集長であったバジョットは、彼ら(起業家達=entrepreneurs)を”新しい人”("New Men" of capital)として描いた。彼らは成功する機会や名声を得る機会があれば直ちに現われる。バジョットは”新しい人”という言葉を、勇敢な若者が危険回避的な”古い資本家”("old capitalists")に対抗して、いかに市場取引に入り、進んで多額の借入をなし、結局は古い資本家を隠退に追い込んでしまうかを説明するのに用いた。

しかしながら、バジョットは、後代のシュンペーター的な意味での起業家(entrepreneurs)として new men を描いてはいません。ロイ・C・スミスのバジョットへの入れ込み過ぎと言うべきでしょうか。因みに今日あれほど騒がれているホリエモンなどは new men として評価されるものでしょうか?

第362夜 - バジョットの名句-2. 最後の貸手

大量に貸付けるが高い利率で、というのが、対内流出に加え対外流出を併発した金融市場の最悪の症状に対する最良の処方である。

Very large loans at very high rates are the best remedy for the worst malady of the money market with a foreign drain is added to a domestic drain.

これはバジョットの原理の核となるものであります。もしバジョット・ルールを一言で述べよ、というならば、「ハテナ」は即座に 'Very large loans at very high rates' と答えます。「最後の貸手」(Lender of last Resort)は、上の原理から派生する機能であって、原理そのものではありません。中央銀行が民間に対し「大量に貸付ける」ということは、今日的に言えば金融のシステミックリスクを防ぐことであります。しかし、後段の「高い利率」でもって、という文脈には二つの意味があります。第一には、高いレートを設定することによって、他の国からの資金の流入を促し、イギリスの正貨(金)流出を防ぐ意味と、第二には、貸付相手である民間銀行に対し、罰則的な金利(penalty rate)を付すことによって今後の民間銀行の準備金保持等、健全経営への警告の意味とがありました。いわゆる「最後の貸手機能」は、A.メルツアーによって以下に引用されるように、バジョットは必ずしも積極的に評価はしていないのです。それどころかそれは最悪の政策であると断じています。

大量に貸付けるが、しかし十分かつ効率的に貸出すことに国民の信頼が得られぬときは、それは最悪の政策となろう。が、しかしその政策は今なお遂行されるべきである。

と。

第363夜 -バジョットの名句-3.信用は人為的には構築されない

信用は、自然に成長する力である、が、しかし信用は人為的に構築される力ではない。

Credit is a power which may grow, but cannot be constructed.

ここでバジョットは、多数準備制度について論究しています。バジョットはもともとフリーバンキング論者であったことの根拠の一つがこれであると言われます。では何故バジョットは多数準備制度(フリーバンキング)を提議しようとせず、単一準備制度を認めたのか、これには次の二つの理由が考えられます。第一は、現存する信用制度(中央銀行制度)への信頼です。バジョットはこれを「取引における信用は、政治に対する忠誠のようなものである」と彼の属したヴィクトリア女王に対する異議もなく理屈もない数百万の人々の忠誠心に例えています。第二は、慣習と年月によって作り出されたこの信用制度に多数準備制度をもし導入されたとしたら、人々はこれを奇妙な(monstrous)ものと見て誰も信用(confide)しないであろう、と言います。
しかし一方でバジョットは元来は多数準備制度論者あるいはフリーバンキング論者であったという論も有力です。例えばB.シェフォルドは、「バジョット>ロンバード街<のヴィジョンと現実」という論文で、バジョットはもともとフリーバンキング学説に好意を寄せ「自然な」銀行システムの構想に愛着をもっていたのだ、といいます。それがヴィジョンにおいて多数準備制を、現実においては中央銀行の「有益な独占」を支持するようになったのだと。
しかし、バジョットは現実の世界を冷静に観察してあくまで「持続可能な」世界を求めたのだと「ハテナ」は考えています。

第364夜 - バジョットの名句-4.ジョン・ブル気質

このことは、次の諺が言うとおりを意味している、『ジョン・ブルはたいていのことには我慢するが、2%の利率には我慢できない』と。

This is the meaning of the saying ' John Bull can stand many things, but he cannot stand two per cent.

前の文脈を受ける This について若干の説明が必要でしょう。バジョットは「なぜロンバード街は時に鈍感となり、また時に過敏となるのか」と題して論じるのです。鈍感とは不況の局面を指し、過敏とは好況の局面を指します。また次のような言説も見られます。「イギリス人ー少なくとも近代的なイギリス人ーは、先ず一番に’自分の金を5%の利回りを生む何か安全な物に投資する’ことができなければならないと想定する」。いかにもジョン・ブルの金利生活者(moneyed interest)としての生活感覚が溢れていて面白いのです。そういえばケインズも違った意味合いではありますが、『一般理論』で、銀行の貸付利率は最低 1.5 %は保持しなければならぬ、と言っていますね。

・・・典型的な借手が支払わなければならない利子率は純粋利子率よりも低下の速度が遅く、現在の銀行組織および金融組織の方法によっては、それをある最低水準以下に引き下げることはできないであろう。このことは、道徳的危険の推定がかなり高い場合にはとくに重要である。なぜなら、危険が借手の誠実さに関する貸手の疑念に基づいている場合には、不誠実であろうとするつもりのない借手の意中には、その結果課せられるより高い利子率を相殺するものは存在しないからである。そのことはまた、費用のかさむ短期貸付(たとえば銀行貸付)の場合にも重要である。ー銀行は、たとえ貸手にとって純粋利子率がゼロであっても、その顧客に対して 1.5%ないし 2%を課さなければならないであろう。

ひるがえって今日のわが国の金融市場をみますと、ゼロ金利などという異常な流動性の罠に陥っています。かつてのジョン・ブルがこれを見たらびっくり仰天したに違いありません。

第365夜 - バジョットの名句-5.準備金

われわれは通貨に対する準備のことを言っているのではなく、銀行の準備金のことを言っている。すなわち準備金は預金に対してであって、銀行券に対してではない。

We speak not of the currency reserve, but of the banking reserve - the reserve held against deposits, and not the reserve held against notes.

1844年のピール条例以後、通貨に対する準備金の管理、から預金に対する準備金の手当の必要性、に変化したことを、この文脈は語っているのです。たいていの論者は発券制度に関し通貨に対する準備のことを強調して、バジョットがそうではないことに気づいておりません。バジョットの力点は、銀行の、そしてより重要な中央銀行の準備金の意義を預金支払が十分に出来るかどうかに置いているのです。十分な準備金を保有することによって中央銀行は初めてパニックに備え大量の貸付を即座に実行しその効果(パニックの波及を阻止)を挙げ得ると、力説するのです。華やかな通貨論争が闘われる最中、敢えてバジョットがそれに加わらなかった理由もこのようなバジョットの金融理念があったからでしょう。

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