前夜からの続き

第366夜から第370夜まで

第366夜 - バジョットの名句-6. 大蔵大臣のベッド

しかし我々は何らかの権限を与えられる前に行動しなければならなかった。恐らく大蔵大臣がベッドから起き出す前に、我々はみずからの準備金の半分を貸付けてしまった。それは確かに後悔の念なしにはいられない程の額にまで減少したものではあったが。

But we had to act before we could receive any such power, and before the Chancellor of the Exchequer was perhaps out of his bed we had advanced one-half of our reserves, which were certainly thus reduced to an amount which we could not witness without regret.

バジョットは、たとえ支払不能額が小額でも一旦生じればそれは大きなパニックに拡がることをよく承知していたのです。したがって小出しせず多額の貸付けを一挙に行うことがパニック防止の効果的なやり方であることを認識していました。それとともに留意すべきは、『ロンバード街』には必ずしも明示されてはいませんが、今日的な用語で言えば、中央銀行の独立性をも含意していると理解できるでしょう。

第367夜 - バジョットの名句-7. 新しい酒を古い壜へ

「新しい酒を古い壜に注ぐ」ことは、その壜の状態を観察し、その形状に注意深く合わせるようにして注ぐときにのみ安全となるのである。

通常用いられるこの諺は、「新しい酒は新しい革袋に」ですが、バジョットはこれを「古い壜に新しい酒」と巧みに言い換えている。この言葉はバジョットの思想を知るうえで貴重な示唆を与えています。バジョットは、イングランド銀行の経営について、1694年の設立以来、さまざまな外的要因の変化に対応して同行の経営についての賢明な憂慮(a wise apprehensiveness)を求めているのです。

ところでこのバジョットの「賢明な配慮」は現代にも通ずるものがあります。1999年10月、フランス銀行で開催されたコンファレンスにおいて、日本銀行は、「1999年代の金融政策」と題した講演のなかで、バジョットに触れて次のように述べています。

バジョットの古典的著作である Lombard Street が19世紀の英国の現実の銀行危機の経緯の中から生まれたのと同様に、日本銀行が1990年代に金融政策や金融システム安定化の面で果たした役割も抽象論ではなく、この時代の現実の経済・金融の状況に即して評価を行う必要がある

と。この意は、バジョットの”新しい酒を古い壜に注ぐ”の喩えの通り、新しい制度を外から注入するのではなく、賢明な憂慮による日本銀行の政策を採るべきことを示唆しているのです。このようにバジョットは今日にも生きているということが言えましょう。

第368夜 -お月様からでもお金を引き出せる

19世紀後半のシティ(イギリスの金融市場)は世界のなかでも突出して国内はもとより諸外国からも膨大な資金が集まる処でありました。でも、「綿花流出」や凶作によって金が流出することもあり、その金の流出に対する金保有防止策が採られます。それは利子率を引上げることでした。貨幣の利子率が引上げられれば、資金はロンバード街にたしかにやって来ます。大陸の諸銀行は、利子率の有利なところへ資金を回すからです。B・アイケングリーンという人は、バジョットの格言を用いて、「十分高い水準にイングランド銀行の利子率を上げれば、月からでも金を引き出すことができよう」とさえ言っています。では金利が上がれば物価高となってしまうのではないか、という疑問に対しては、それは逆であって、豊富な資金が流入することにより、それが商業活動を活発にして商品が安く供給できるよ うになって、結局は物価の下落に結びつく、その結果、輸入は減退し、輸出は増大し、地金の流入は促進されるのだ、と説くのであります。このように世界に先駆けてイギリスのシティはあらゆる資金が出入りする国際的な市場が形成されていたのです。

第369夜 - ソーントンのパラドックス 1

前夜までバジョットについてかなり紹介してきましたが、このバジョットの前にもう一人の金融学者にして銀行家がいました。H.ソーントンという人です。一説ではバジョットの先駆者と言われていますが、「ハテナ」は必ずしもそうは思っていません。何故なら、バジョットは準備金を大切にしたのに対してソーントンには準備金の概念は希薄、否殆ど触れていません。しかし1802年に刊行された『紙券信用論』は、当時の金融貨幣論のなかできわめて斬新な見解が見られ、この著も優れた古典のうちに入っています。そのなかにこんな面白い逆説が述べられています。

〔人がたくさん貸し込み過ぎたので、自分の支払いが出来なくなったとは言えようが〕お金に詰まったのでたくさん貸さざるを得なくなったと答えようものなら、恐らく奇妙にきこえよう。

It would seem strange to reply......that man in question had found it necessary to lend largely, because his cash failed him.

ホント〜??? そのココロは長くなるので次夜で明らかにしましょう。

(参照: Thornton, Henry, An Enquiry into the Nature and Effect of the Paper Credit of Great Britain)

第370夜 - ソーントンのパラドックス 2

前夜でのソーントンの論理は、確かに個人にとってはおかしいですね。お金がなくなったから支出を減らすのではなく逆に沢山貸さなければならない、というのは変ですし、第一そんなことは出来ないでしょう。ところが個人の場合でなくて、マクロの金融は、そういうことが起こるのは不思議でも何でもありません。銀行が貸し込み過ぎて手許にお金がなくなると、その銀行は中央銀行に駆け込み借入れを求めます。そして中央銀行はその銀行にお金を融通してやるのです。でないとその銀行は他の決済資金が足りなくなるからです。市中にお金がないと中央銀行はお札を発行して補います。これをソーントンは前夜の事例でパラドックスにしたのです。もちろんソーントンは野放図に紙のお金を発行しっ放しにしてよいといっているのではありません。紙券は市場の潤滑油の役割を果たすものと捉えていたことは以下の叙述にも明らかであります。

・・・金の鋳貨(gold coin)といっても、あらゆる支払いがいつかはそれによって現実に決済される(と約束されているけれども)ものではないことは、商人の間で充分によく理解されている。したがって、そのような目的を満たすための充分な金蓄積(ファンド)が同銀行によって未だかつて準備されたこともなかったし、また準備されることもあり得ない・・・人心の動揺がいったん勃発したとすれば、どの銀行がその一般的な準備金を如何に巨大に持っていようとも、その銀行の力では前述の二重の目的〔貿易差額の決済と、何らかの異常な国内需要をみたすため〕を充分には達成し得ないことが判明するものと容易に想像し得よう。

このような考えをもっていましたから、ソーントンの、すなわち、「お金を手詰まったから貸さざるを得ない」というパラドックスが示されることになるのです。
これに対して前夜で紹介しましたバジョットは、平素から銀行の準備金を手厚くしてお客の信用不安(預金の払い出し)をなくするように心掛けねばならないと説くのです。

パニックに対する最良の緩和剤は、銀行支払準備金が充分にあって、その準備金が有効に使用せられるということを確信せしめることにある。(バジョット)

このようにソーントンとバジョットの言説は極めて対照的だと「ハテナ」には思えるのです。果たして、今日の中央銀行の金融政策はどちらの考えの方に向いているのでしょうか。

(参考: ソーントン、バジョットー同上書)

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