前夜からの続き

第381夜から第385夜まで

第381夜 - 投機はスナップ?

ハイルブローナは、投資家の行動について驚くほど厳しい姿勢を見せています。かれの言うことを少しばかり引用してみましょう。

たしかに正統派金融の格率(maxims)の中で、流動性の崇拝、すなわち「流動的な」有価証券の所有に資産を集中することが投資機関の積極的な美徳であるとみなす教義ほど反社会的なものはない。

今日の最も熟練した投資の現実的な、個人的目的は、アメリカ人がうまく表現したように「仲間を出し抜き」、群衆の裏をかき、質の悪い、価値の下がった半クラウン貨を他人につかませることである。

長期間にわたる投資の予想収益を予測するよりむしろ、2, 3 ヵ月先の慣行的評価の基礎を予測しようとするこの虚々実々の戦いは、玄人筋の胃袋を満たすために大衆のなかに鴨のいることすら必要としないーその戦いは玄人同士で演ずることができるからである。また、評価の慣行的な基礎は真の長期的妥当性をもつという単純な信念を抱いていることをも必要ではない。

なぜなら、それは言ってみれば、スナップ*とか、オールド・メイド(ばば抜き)とか、ミュージカル・チェア(椅子取りゲーム)に似た遊戯だからである。

これらの遊戯では、遅くもなく早くもなくちょうどよい時に「スナップ」と叫んだものとか、遊戯の終らない前にばばを隣の人に手渡したものとか、音楽の止まったときに自分の椅子を確保したものが勝ちとなる。

遊戯しているものはみな、手から手へ回されているものが「ばば」であることを知っており、また音楽の止まったときに遊戯者の中のだれかは座る椅子がないことを知っているにもかかわらず、これらの遊戯は面白おかしく遊ぶことができる。

*研究社リーダーズ辞典によりますと、次のような説明があります。”スナップ<トランプ遊びの一種、カードを1枚ずつ出していき、同じランクのカードが出たとき最初に、snap と言った者が他のカードも得る>”

(参考: ハイルブローナー 同上書)

第382夜 - 再び政治経済学へ

18世紀のエコノミストは、スミスであれ、リカードであれ、すべて政治経済学(Political Economy)を論じていました。19世紀になって、より客観的な科学として経済学を観るべきだとして「政治」(Political)を取り除き、初めて「経済学」(Economics)を提唱したのはジェボンズやマーシャルでした。それから以降経済学は厳密に推敲を重ね数学を縦横に駆使して今日主流派と言われる経済学(=新古典派経済学)に結実してきました。ハイルブローナーは、この流れについてこんなことを言っています。「もし火星からの訪問者が主流派経済学の学界誌を手にして、それを物理学の本と間違えても大目に見られることであろう」。そしてこう結論づけています。

今日、資本主義システムは強力な技術、かつてない国際的な金融および投資の流れ、環境からの脅威の出現、そして高まる政治の不安定性などによって多くの困難にさらされている。こうした課題があればこそ、本書であきらかにしてきた政治経済学の伝統を再び蘇らせることが、やはり必要になると思う。

(参考: ハイルブローナー、同上書)

第383夜 -皮肉屋のルソー

ルソーという思想家は、「ハテナ」にはこれほど判り難い皮肉屋はいないという甚だ悪い先入観をもって見てしまいがちです。彼の主著『社会契約論』のなかの民主政について(第三編第四章)、その一端をお目にかけましょう。ルソーは民主政というものは言葉の厳密な意味では決して存在しない、と言うのです。何故ならば、多数者が統治して少数者が統治されるということは自然に反するからだ、というのです。例えば、政府の職務が多数の役所に分割される場合、最も人数の少ない役所がおそかれ早かれ最大の権威をもつようになるからだ、というのです。そうすると「ハテナ」はそれでは小泉改革で省庁のスリム化は、小さな人数のところで最も早く決定され、それ故に大きな権力をもつ、という民主政に反した独裁政権になりはしないか?そもそも民主政というものは、多数の意見を吸い上げる機構であるから、大きな政府にならざるを得ない、民主主義は高くつく、というのが「ハテナ」の疑問でありますが・・・。それはともかく、ルソーの言い分には改めて耳を傾ける要があるといわざるを得ません。

〔民主政という〕政治は、結びつけることの困難な事がらのいかに多くを前提としていることだろう!第一に、非常に小さな国家で、そこでは人民をたやすく集めることができ、また各市民は容易に他のすべての市民を知ることができること、第二に、習俗が極めて単純で、多くの事務や面倒な議論をはぶきうること、次に、人民の地位と財産が大体平等であること。そうでなければ、権利と権威における平等が長つづきすることはありえない。最後に、奢侈が極めてすくないか、または全く存在しないこと。というのは、奢侈は富の結果であるか、または富を必要とするものだからである。奢侈は金持も貧乏人も同時に、すなわち金持を財産によって、貧乏人を物欲によって、腐敗させる。(中略)民主政もしくは人民政治ほど、内乱・内紛の起こりやすい政治はないということをつけ加えておこう。(中略)・・・その存続のために警戒と勇気とが要求されるものはないからである。「わたしはドレイの平和よりも危険な自由を選ぶ」と。

平和ボケしたわが民主主義国よ!1762年に書かれたルソーのこれらの言説に耳を傾ける要があるでしょうか、ないでしょうか?

(参照:ルソー『社会契約論』より)

第384夜 - 倹約は善か

倹約が企業活動を阻害すると主張したのはケインズでした。誤解のないように付け加えますと、次のようになります。倹約した果実は、資本の蓄積に役立つか、それとも消費者の単なる貨幣所得の増大をもたらすに過ぎないか、という二つの側面を持っています。同じ様に、企業活動による出費は、倹約から得られるのか、あるいは消費者の犠牲によって得られるのか、という二つの命題を解くことにあります。もし倹約が単に存在するだけか、あるいは企業活動を凌駕することになりますと、それは(倹約は)企業活動の回復を阻害し、停滞という悪循環を生じます。これに対して企業活動が目覚めて起きていれば、「倹約」がどうなっていようとも富は蓄積され、またもし企業活動が眠っているならば、「倹約」が何をしようとも富は荒廃する、というのがケインズの考えでした。言い換えれば活性化しない「倹約」は富を蓄積しないと説いたのであります。したがって倹約を活性化させるための銀行組織と貨幣制度の役割が重要になってきます。

(参考:ハイルブローナー 同上書)

第385夜 - マキアヴェリ語録

マキアヴェリは1532年の昔、『君主論』を著し古典中の古典として現代においても長く読み伝えられ、むしろ今日的な問題を世に問うという意味で益々その意義が認識されております。専門外である「ハテナ」にこれを論する資格はありません。もちろん読むには読みましたが。そこで訳者の一人であり名解説者でもある池田廉氏によって、いわゆる「マキアヴェリ語録」なるものの一端を以下に引用しますと、その一部は次のようです。

なにかを説得するのは簡単だが、説得のままの状態に民衆を引きつけておくのがむずかしい
恩恵はよりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない
善い行いをすると広言する人間は、よからぬ多数の人々のなかにあって破滅せざるをえない
大事業はすべてけちと見られる人物によってしかなしとげられていない
人間は恐れている人より愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つける
君主は、狐とライオンに学ぶようにしなければならない
人間は邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものではない
人間は、手にとって触れるよりも、目で見たことだけで判断してしまう
運命は女神だから、打ちのめし、突きとばす必要がある

等々。冷徹な科学者でもあり、皮肉屋さんでもあるマキアヴェリの特徴がよく出ている名言であります。

(参照:マキアヴェリ『君主論』池田廉訳 中公クラシックス p.25-26 より)

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