前夜からの続き

第386夜から第390夜まで

第386夜 - 国家の介入、説得

古典派経済学や新自由主義論者の主張がどんなに魅力的に見えても、市場の失敗を免れることはできません。個別資本は利潤を求めて競争し、自己利益を中心に活動しているからです。競争の中では利潤の得られそうもない活動には乗り出そうとはいたしません。企業内福祉の縮減はその典型的な事例でしょう。そうしますと、市場の部分的ないし全面的失敗を補うために経済以外の外的な諸制度が求められるようになります。例えば形式的に合理的であるかのような貨幣システムやまた形式的に合理的な法体系などに、国家が介入せざるを得なくなるのです。国家の介入は、単に市場の作用を修正するだけの目的を持つものではなくて、資本主義そのもの、あるいは市場そのものに関与することが求められるのです。したがって国家は、権力、法、調整、貨幣、商品とサービス知識、道徳的説得などの活動が要請されるのです。また国家の介入をできるだけなくすとして規制の撤廃が進められていますが、撤廃実現の後に生ずる混乱、紛争などを、きちんとしたルールのもとに制御する必要がありましょう。競争の結果生ずる敗者にたいするセーフティネットの構築も国家の役割です。インフラストラクチャの整備もそうですね。資本主義下の資本はまさに福祉などは二の次でひたすら資本の論理、すなわち、利潤追求を目的に動くからです。そうすると今流行りの新自由主義論者の主張にはかなりの限界があると「ハテナ」は考え込んでしまうのです。その最も危険な兆しは、格差の拡大(勝ち組と負け組)、民営化によるモニター機能の不備(耐震偽装の発生)、航空会社整備士の不足などを挙げればその懸念は明らかでしょう。

第387夜 - For all, here and now
       今、ここにいるすべての人々のための

福祉国家体制のもとにあっても大きな不平等と深刻な貧困に悩まされているのが、現代の姿です。そこでいま再び1960年代に唱えられた福祉国家の平等主義、すなわち、「今、ここにいるすべての人々のための」(for all, here and now)というスローガンが脚光を浴びてきました。福祉国家は、その平等主義的原理を根本的に再考しなければならなくなったのです。イエスタ・エスピン・アンデルセンは次のように示唆しているのです。

今ここにいる人々の何人かについての不平等を容認し、しかし同時に、「今ここにいる人」で 恵まれない境遇の人が常にそうした状態にとどまらないことを保証することである。というのは、 恵まれない状態は人のライフコースで永久に固定されたものであってはならないからである。こ の種のダイナミックな人生のチャンスとしての平等への関わりが、おそらく、ひとつのプラスサム的 解決であるであろう。

このことは市民の自立能力を最大限に活用するという社会政策を重視する、ということを意味しています。おそらくその事例にひとはスウェーデン・モデルを考えるでしょう。一見してスウェーデン福祉国家は平等主義と労働インセンティブとが結合しているように思われがちです。だが、平等主義的な賃金、これを社会的賃金と呼びますが、それがもっと働こう、とかもっとスキルや教育を受けようとするインセンティブに結びつかない悩みがあります。一方、アメリカ・モデルでは低いスキルの労働者への賃金引下げ圧力は深刻な貧困の罠を生んでいます。こうしてラディカルな改革は極めて困難で案外、昔からの慣行を尊重する保守的な人々が福祉国家にむしろ好意的であるというパラドックスが生まれてしまうのです。

(参照:イエスタ・エスピン・アンデルセン「黄金時代の後に?」G.エスピン・アンデルセン編『転換期の福祉国家』p.287-289. より)


第388夜 -イギリスの福祉国家の変容

ウィリアムズという人はその著書のなかで、イギリスの未来をこう語っています。すなわち、三つの将来ー「明日への投資に期待するブリテン」('Investors' Britain)、規制を緩和するブリテン」('Deregulators' Britain)、「基準を等しくするブリテン」('Levellers' Britain')を英国は展望する、と。そしてシュンペーターの労働者福祉国家(Workfare State)を引用し、人本主義('human capital')、すなわち、効率の良い労働力の形成に資する国家の役割の増大を訴えます。それはケインジアンの需要サイドからの福祉国家(Keynesian Welfare State)とは異なる、供給サイドに立つシュンペーターの労働福祉国家(Schumpeterian Workfare State)なのであります。これは現在英国首相ブレアの採る第三の道です。ブレアはその道が険しいものであるとしても、「国家はただ舟を漕ぐのではなく前進しなければならぬ。管理することにあるのではなく挑戦することだ」と決意します。このように人間と社会資本への投資を優先し、公共サービス部門での企業家精神を説くブレアの第三の道は、果たしてリアリティを持ち成功するでしょうか、今後の推移を見守るしかありません。
ウィリアムの著書の副題が示すように、バジョット(19世紀後半)からブレアの時代にかけてイギリスの福祉国家の形は随分と変容したものです。

(参考:Michael Williams, (2000), Crisis and Consensus in British Politics From Bagehot to Blair )

第389夜 - 労働の内部雇用化

労働市場の内部化論は、労働組合の弱体化につれて高まってきました。労働力だけでなく市場全般に亙って(企業)内部取引を強調したのが、R.コースの取引コスト(transaction cost)概念です。コースはこれでノーベル賞を授賞しました。コースの理論を一口で言うと、”市場は高くつく”ということであります。どういうことかといいますと、市場の不完全性を克服するために企業は取引を自己の内部に取り込み、市場より安いコストで調達する方がベターであるとするものであります。
労働市場においても、内部労働化は進んでいます。企業が製造業の場合、直接的には労働コストは製造原価に反映されます。生産量目標に対する労働コスト減(投入労働量の減もしくは賃金の減)、或いは、一定の労働コスト(労働者数と賃金の一定)に対しどれだけ生産量を増やせるか、が第一義の生産性であります。その外に、非生産部門における間接費としての人件費や厚生費用が、一般管販費に計上されるでしょう。
 さて、労働の内部市場化といいますのは、この二つの費用を企業内で決定することができることを意味します。例えば多くの企業は、人事部に人事課と厚生課を設け、その費用を必要性や効率性、企業の収益状況と睨み合わせて決定します。ジャコビーという学者は、これを雇用官僚制と呼んでいます。労働組合の力が弱体化し、外部市場としての影響力や企業としての交渉力が弱まって来ますと、人事官僚は労働コスト(賃金×労働者数+福利厚生費)を企業内で決定することができるようになってきますよね。このシステムを名付けて、ウェルフェアキャピタリズム(Welfare Capitalism)と呼ばれたりもします。

第390夜 - コースにまつわるエピソード

前夜でちょっと登場しましたコースにまつわる、ちょっとしたエピソードです。
ロナルド・H・コース(Ronald H. Coase)という学者は、イギリスに生まれ、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで博士号を取得後、1951年にアメリカへ移住して、シカゴ大学の教授となり、取引費用の面から企業の存在を理論づけた、とてもユニークな学者です。「企業の性質」(The Nature of the firm)や、社会的費用の問題(The Problem of Social Cost)などの論文を書いたとき、名だたるシカゴ大学からさんざんな批判を受けました。その時コースはこんなことを残しています。

The Federal Communications Commissionについての私の論文の中で私が過ちを犯していたとシカゴ大学の経済学者たちが考えたという事実がもしもなかったとすれば、The Problem of Social Cost が書かれることはなかっただろうということはありうることである。

この意味深長な言い回しにはちょっと説明が要るでしょう。欧米での巧妙な比喩やレトリックは日本のように相手をなじったり、直接反論したりはせず、ウィットに富んだ表現で相手をたしなめるのです。つまりコースは大学内での批判が多かったため、The Problem of Social Cost という論文を書いたら見事ノーベル賞を受けましたよ、と婉曲に言いまわしているのです。念のため当該箇所の原文を載せておきます。(誤訳だったらごめんなさいね) なお、コースがノーベル賞を受けたのは、1991年でした。

・・・The Nature of the firm were the two articles cited by the Royal Swedish Academy of Sciences as justification for awarding me the Alfred_Nobel Memorial Prize.
Had it not been for the fact that these economists at the University of Chicago thought that I had made an error in my article on The Federal Communications Commission, it is probable that The Problem of Social Cost would never have been written.

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