前夜からの続き

第391夜から第395夜まで

第391夜 - ウェルフェア・キャピタリズムの出現

かつての労働組合の力が衰えてくると、今度はウェルフェア・キャピタリズム(Welfare Capitalism)が唱えられるようになりました。これは、組合や政府による制度ではなく、産業社会における危険負担を会社を中心にして制度化されたものを指します。具体的な特徴は、@内部昇進制などの人事管理システム、A会社組合や従業員代表制による話し合い、B雇主が提供する福利給付、などであります。もともとアメリカで1930年代の大恐慌によって産業別の組合運動が起こり、そして第二次大戦後に組織労働者の運動が強かったのでしたが、一方でアメリカには組合のない大企業が存在していました。それらの企業がウェルフェア・キャピタリズムを目指しました。彼らはレイオフをしなかったため、組合指導者よりも会社経営者に信頼を寄せる忠実な従業員がいたことは、日本の終身雇用制度ほどではなくとも何らかの雇用保障が慣行的に存在していたのです。ウェルフェア・キャピタリズム研究の権威であるジャコービィという学者は、会社が保障の柱石であるとの信念を持っているようです。もっともこのジャコービィの著書は、Modern Manors となっており、日本語に訳すと「会社荘園制」とも言うのでしょうか、何か違和感があるのですが、でも彼は主張します。政府や労働組合よりもむしろ会社企業のほうに、現代社会における保障と安定があると、と。その事例を20世紀初頭の最も先進的な企業である SC.ジョンソン・アンド・サン社に求めますと、次のような語録が見つかります。

「これは恩恵(ベネフィット)ではないのです。・・・最良の人材を惹きつけるためですから事業の立派な意思決定なのです」

「企業のなかに家族的な雰囲気」

「・・・全員がテーブルの同じ側に座っている・・・その結果として労働異動はひじょうに低いし組合もない・・・」 等々。

(参考:S.M.ジャコービイ『会社荘園制』 アメリカ型ウェルフェア・キャピタリズムの軌跡)

第392夜 - ウェルフェア・キャピタリズムは現代に通用するか

ジャコービィはウェルフェア・キャピタリズムが今日の「新しい」組合不在企業モデルとして生まれ変わった理由を多々のべています。要約しますと、

@ 労働者と経営者は敵対しつつも、なおかつ利益を共有している。
A 労働者と経営者の相互依存関係は、労働者が経営に生計を委ねる一方、経営者は労働者の専門技術、知力、判断力に依拠せざるをえないこと。
B 文化的な願望の共有→労働者も、マイホームの願い、快適な暮らしのほか、自分で事業を持つことを子供に託したい、などの夢を持っている。
C 労働者は労働組合に無関心となっている。だが、この反面ウェルフェア・キャピタリストが組合を阻止するために巨費を議会に投入した、という批判もある。
D 高度に洗練された一握りの組合不在企業が生き残ったこと。これはアメリカの労働者が自分の主体性のみを唱え、雇主の政策も関与していることを看過してしまったこと。一方リベラル派は、組合不在企業を社会に逆行しているものとして扱ってしまった。
E 組織労働者が大きな安定勢力になり社会に受容されたかにみえる盲点。組合是認論は通念、との観念にジャコービィは否定的である。
F ニューディール後の経営者の自信の回復。

以上の諸要因を挙げてジャコービィは、1960年代と1970年代に現代ウェルフェア・キャピタリズムが急速に広がり、高学歴労働者のウェイトが高まり、労働者組織率が低下したことも加わって、テイラー主義に代わる参加(パーティシペイト)原則がうまく機能したと論ずるのです。

(参考:ジャコービィ 同上書)

第393夜 -契約の理論

前夜でのジャコビーの言う雇用の内部化とは、見方を換えれば、アザリアデスの言う暗黙の契約理論(implicit contract theory)に通ずるものがあります。
アザリアデスはまず初めにアローの言葉を借りて次のように問い掛けます。

 不可解なのは、何故雇主は賃金をひきさげないのか (One of the mysterious things is why 〔the employers〕 do not cut wages)

と。
 競争的な賃金の理論は、不必要となった労働者を解雇するのが通常であるはずですね。ところが、通常の生産物市場と違って労働市場は、特に労働資源に備わる属性は、競争市場による競売人モデルからは導き出せない特性であり、このことから多くの議論が生まれ、特に労働資源の移動の制限及び不確実性下での人的資本を多様化することの困難性に遭遇するのです。アザリアデスはこんなふうに述べます。「不確実性下において、労働の供給は、新鮮な果実が売られるのと全く同じやり方で競売にかけて売り払われるのではない」と。
 雇主にとっては危険中立的(risk-neutral)、被雇用者にとっては危険回避的(risk-averse)な、夫々の立場から雇主と被雇用者との間に、雇用契約における暗黙の契約の生まれる要因が見出されるのです。すなわち、雇主は自己の損失を負ってまで雇用を維持しようとはしないが、そうかといって景気の変動によって解雇したり再雇用したりすることは、費用の点や人材確保の見地から必ずしもこれを好みません。
 一方、被雇用者にとっても短期に労働条件が変化し一時的に有利な条件が示されたとしても、それよりも長期的に安定した雇用条件のほうを好むのです。ここに双方にとって暗黙の合意が得られる条件が見出せるのです。アザリアデスは、これを暗黙の労働契約(implicit labor contract)と呼びました。
 この点は先のジャコビーの議論に通ずるものがある、と「ハテナ」は考えます。つまり、福祉国家の成立及び発展の条件は、国家が外生的に与える諸制度の構築や社会資本の充実にあることは言うまでもありませんが、ジャコビーの提起した雇用の内部化は、何よりも雇用主と被雇用者の合意の下における内生的な要因にもとづく福祉の向上にもかかわってくるのではないでしょうか。

(参考: Sanford M.Jacoby, Are Career Jobs Headed for Extinction? California
Management Review, Vol.42. No.1. Fall 1999.
Sherwin Rosen ed., (1994), Costa Azariadis (1975), Implicit Contracts and
Underemployment Equilibria, Impact Contract Theory.

第394夜 - 苦汁産業

格差社会での激しい競争の下、企業は極力労働コストを低減しようとして海外に進出したり、国内ではいわゆるフリーターや外国人労働者を使おうとします。こうした産業や企業は、労務費が比較優位にたつと言われます。すでに20世紀の初頭には、ウェッブ(Sidney&BeatriceWebb,1927年の『産業民主制論』)によってこれらの産業を「苦汁産業」と呼ばれました。企業あるいは産業にとっては安くて利益の上がる行動ではありますが、一国全体としては、国民経済に損失をもたらし国民的効率も阻害されます。ウェッブはこうしたイギリス経済全体の衰退を「退化」という言葉で表しました。彼は、市場経済システムは、上方への「進歩」の潜在力を持つ一方で、絶えず下方への「退化」の重荷を背負う、すなわち、「一言で言えば、進歩というものは、もし人間の淘汰力によって阻止されなければ、我々が進歩と呼ぶものになるのと同時に、退化に結果することもある」と洞察しています。
今日ますます格差社会になっていく現状を見るとき、すでにこのことをウェッブは鋭く予言していた、ということができるのではないでしょうか。

(参考:岡村東洋光 / 久間清俊 / 姫野順一編著『社会経済思想の進化とコミュニティ』より)

第395夜 - 貨幣の起源

わたくしたちは、日常生活のうえで何気なく使っている1万円札や1千円札なとの紙幣、500円や100円玉は、いったいどうして皆に通用するのでしょうか。それ自体は紙であったり金属片であってほとんど価値はないのに、どうしてわたくしたちは安心して使っていられるのでしょうか。考えれば、こんな簡単な疑問に答えるのに何とも様々な考えや議論が続いています。貨幣という語が名付けられたのは16世紀、ドイツ語のGeldからでした。それ以来、ずっと貨幣が使われているのに、貨幣とは何か、その本質は?といった議論が延々と続いており、今尚これだ!という定説は見当たりません。その中で、貨幣というものはそこに含まれる価値そのものや、政府または中央銀行から保証されているから貨幣なんだ、という代わりに、貨幣の起源は、「慣習」によって生まれたものということを強調したのが、カール・メンガーという人でした。メンガーは先ず、法によって制定されたものとする貨幣学説を批判します。法制定説あるいは国定説とは、貨幣ははじめから目的と手段とをもって国家的および社会的な対処の結果として貨幣が制定される、という説です。これに対してメンガーは批判します。貨幣の成立は、債務清算のような法秩序上の貨幣と混同してはならないとして、貨幣は法律や社会的契約によってでなく、「慣習」によって成り立つのであることを主張したのです。そしてこの「慣習」が持続することにこそ貨幣の本質があるのだというのです。そういえば財というものは市場で売り買いすればその財は市場から消えていきますが、貨幣は引き続き市場に留まりますね。これは貨幣に持続性があるからです。反対に政府が強制通用力を貨幣に持たせると、鋳貨や紙幣発行権の濫用が生じてとても一国の貨幣制度が完結したことにはならない、というのは数多くの歴史が教えてくれます。むしろ強制通用力を必要としない程度が高まれば高まるほど、国内通貨の価値はますます完全で健全になるといえましょう。こういった諸点からメンガーの言う「慣習」説は、根強い貨幣の起源と本質を衝いたものとして評価されています。

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