前夜からの続き

第401夜から第405夜まで

第401夜 - 理念の人?

シュンペーターがアダム・スミスを評したなかで、印象深いのは、スミスが”新しい理念の人ではなかった”という件りであります。彼は以下のように述べます。

・・・或る一連の体系若しくは現象を確実に把握し少しも一事にのみ執着しない健全な客観的な眼光があった。彼は理念の横溢に捉えられることなく、またほとんど誰もついて行けないような細道に迷い入ることもなかった。彼は総合的労作と調和的叙述との人材であるが、偉大なる新しい理念の人ではなかった。彼は特に現存しているものを慎重に検討しこれを冷静に且つ理性的に批判した後に獲得された判断を、同様にして得られたその他の判断の系列のなかに挿入するような人であった。かくて既に踏み慣わされた道に立ってまた現存している材料を以て、この太陽のように明らかな精神はその大規模なライフ・ワークを創作したのである。

「ハテナ」が青字をつけた箇所は、ある意味では誤解されるかもしれません。第一の”理念の人でない”という点については、スミスがモラルフィロソファー(道徳哲学者)であることの反対であくまで実証の人という印象を受けますね。しかし、シュンペーターはスミスの哲学的側面(「道徳感情論」「文学のあらゆる異なる部門の哲学的歴史」や「法律と政治の理論および歴史」)を踏まえながらもこう言い切っているのです。第二の”既に踏み慣わされた道”に立って壮大な体系を樹てた人とも受けとめられてしまいます。逆に言えば独創家ではなかった、というシュンペーターの隠れた皮肉ともとれるように「ハテナ」は皮肉にもこう考えてしまいます。

(シュンペーター『経済学史』学説ならびに方法の諸段階ーより)

第402夜 - 経済学における自然とは

経済学の用語にはよく自然という言葉が使われます。自然利子率、自然成長率、等々。この自然的(natural)という表現は、古典学派に発しています。特に自然的価格、自然的賃金などと自然がつくと何で?と引っかかる感がしないではありません。第一に意味づけられることは、それが「正常的」(normal)だという意味で使われた、ということであります。明瞭に、とか容易に見られるようにとか、の意味が集約されて、正常的という言葉で意味されるのであります。第二には、価格や賃金の大きさが持続的に保たれるような状態を自然的とあらわすことがあります。第三には、通常の、という意味があります。例えば、不正常に高い賃金が払われた場合、わたくしたちは、これを簡単に通常以上に高い賃金といったりします。
古典学派は均衡状態における国民経済の研究に集中していましたから、この
自然という言葉にことさらにこだわったのでした。

(参考:シュンペーター同上書より)

第403夜 - SECのひとびと

SEC(Securities and Exchange Commission 米国証券取引委員会)のシンボルは、白頭鷲で、一方の足にオリーブを、もう一方の足には弓をつかんでいます(アメリカの国章)。「ウオール街の鷲」とも呼ばれるのはSECが常にウオール街に鋭い目を光らせているからです。SECのスタッフたちは、ウオール街を、警戒と思慮分別と規制を働かせることによってのみ、悪事から守ることができると信じています。さらにSECが最も忌み嫌うのは、貪欲でした。野放しの貪欲は悪であると。1930年代に、ある調査官は来る日も来る日もSECの図書室に通って、株式市場の崩壊と大恐慌の後遺症が残る同年代の資料を読みふけり、株式や債券市場の乱脈な相場操縦振りを公聴会で明らかにしたのでした。以来アメリカのSECは、不正の起こるたびにその原因を徹底的に調べ法的規制を行ってきた長い歴史を持っています。これに比べ日本の証券取引等監視委員会はまだまだアメリカに学ぶ点が多々あるといえましょう。

(参考 デビッド・A・バイス、スティーブ・コル『ウオール街から来た男』)

第404夜 - 老人のバトル

啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けだすことである、といったのはカントです。そこから「敢えて賢こかれ!」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」といった警句が生まれます。人間はなかなか未成年状態から抜け出ることはできません。そこで経験豊かな老人の智慧が活かされるのです。マックス・ウェーバーもその著『職業としての学問』のなかで『ゲーテの『ファウスト』から次のような文句を引用しています。

・・・「気をつけろ、悪魔は年取っている。だから悪魔を理解するにはお前も年取っていなくてはならぬ」

ところがです。最近出版された筒井康隆の『銀齢の果て』というブラックパロディ小説は、まったく逆に高齢化が進む日本の老人人口を淘汰するため、老人同士で途方もないシルバー・バトルを行わせる、という何とも凄い本です。もちろん作者はこの滑稽きわまりない筋書きのなかで老人問題を訴えようとするのでしょうが、「ハテナ」には、若者が老人をぞんざいに扱うのではなく、本当は老人同士が互いをののしりあい殺しあう、というブラックユーモアのなかに真実があり、この実在に問いかけているように見えてきます。老人という存在のどうしようもない、いやらしさ、をこのなかに感じます。近頃の若者は・・・という陳腐で聞き飽きた老人のお説教や、老人の分別ある(?)道徳などをのたもうて威張っている老人たちは、老人対若者の対立ではなく、まさに老人同士間の壮絶、陰険なバトル戦争をすでに始めているのではないでしょうか。

(参考 カント『啓蒙とは何か』 ウエーバー『職業としての学問』 筒井康隆『銀齢の果て』より)

第405夜 - 「職業としての政治」家

自民党のアフター小泉争い、民主党の政権取り等々、劇場国家日本は、メール問題がいみじくも現すように話題性に事欠きません。すこし冷静に考えますと、やはりウェーバーの言った『職業としての政治』を紐解いてみる必要があるようです。ウェーバーはこう述べています(長文になるのでさわりのところだけ引用します)。

政治家にとっては、情熱ー責任感ー判断力の三つの資質がとくに重要であるといえよう。(中略)情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力ーこれは政治家の決定的な心理的資質であるーが必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。

(参照 マックス・ウェーバー 『職業としての政治』より)

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