「ウィーンから遠く離れたアフリカの地で授受されるマリア・テレジア銀貨の存在は、それ自体は特殊な事例でありながら、なぜ貨幣は受け取られるのか」と黒田氏は問いかけます。そしてその最大の原因は鋳造権の譲渡にあったとされます。オーストリア政府は第一次世界大戦によって中東方面への権益を失いました。そこでこの銀貨の鋳造によって差益の見込まれる同貨鋳造権を譲渡したのでありました。それが実現したのは1935年でした。すなわち、イタリアのムッソリーニ政権がエチオピア侵攻を開始したとき、当のエチオピアの準法定貨はマリア・テレジア銀貨でムッソリーニ政権はその鋳造権をウィーンより譲り受けたのでした。
イギリスでも、いまやオーストリアの自国内で流通していない通貨を、他国が発行するのに対しオーストリアが制限する論拠はないとの見解を持ってはいましたが、当時はオーストリアの主権侵害にあたるというオーストリア政府の立場を尊重して見送られました。が、結局イギリス、フランス、ベルギーが1936年前後からマリア・テレジア銀貨の鋳造を開始することになってしまいます。フランスの見解はもっと大胆で、本来の固有の鋳造権者が鋳造権を放棄した以上、もはやその銀貨はどこの国にも帰属せず、「交換の手段として使用されているメダルにすぎない」というものでした。
では一体なぜマリア・テレジア銀貨が選好されたのでしょうか。そこに含有される銀そのもの自体に求めることはできないのです。なぜならこの銀貨よりより純分の高い通貨は存在し広く流通していたからであります(例えばルピー銀貨)。著者の結論はこうです。
選好させた要因は、受領する個々人の判断でも、発行した主体の権能にあるのでもなく、マリア・テレジア銀貨が流れる回路そのものの存在である。・・・アデンを入り口として、エチオピアを西流してゴレへ至り、やがてスーダンへ北流したのち、紅海沿岸のポート・スーダンからアデンへ回るものがあげられる。このような流れを利用して、言語も宗教も行政の違いも超えて、コーヒーや衣料などが逆方向に運ばれていく。・・・地域空間を越えて環状に展開する回路が典型的に現れたのが、このマリア・テレジア銀貨の流通なのである。・・・(p.43-44)