前夜からの続き

第451夜から第455夜まで

第451夜 - 工業化以前にも信用取引が行われていた

わたくしたちの普段の常識では、昔は物々交換、近代化するにつれ信用取引が盛んになるというふうに考えられがちでありますが、事実はそんなに段階的に進んではいないようです。まずイングランド中世末からのある都市(ロンドンから88キロ離れたコールチェスター)の経済を見ていきましょう。13世紀までは農産物交易の場でしかなかったところへ14世紀になりますと毛織物の生産や輸出が行われ変化に富む時代になっていきます。この都市では、@賃金は後払い、A肉の掛売り、B清算は代金相当の品物や労働で支払う、など、現金の受け渡しが頻繁にならないように回避されていました。またイングランド自体も地金の流出に苦しみ鋳造額が減少していました。裁判記録でも法廷に持ち込まれた債務案件が増えていましたし、通貨の供給不足が信用取引を増大させていたことが推測されます。同地内の居住者の間で信用取引が頻繁に行われ通貨使用機会を節約するという方法をとったわけでした。このことを、商品取引による資産の移転を住民の間の債権・債務として処理することから前出の黒田氏は内部貨幣 inside money の創造と呼んでいます。

(参考:黒田明伸『貨幣システムの世界史より)

第452夜 - 両替商の帳簿振替

同じ14世紀で今度は北西ヨーロッパの事例を挙げてみましょう。その町ブリュージュは、前夜でのイギリスのコールチェスターとは異なって両替商たちの間の相互の帳簿振替という信用制度が行われていました。今風に言いますと金融業の専門化というものです。ここでの商人は、現金取引よりも、両替商に預金口座を設けた上で、帳簿振替による決済が上回っていたとされます。商業手形の裏書きが始まるのが17世紀からですが、その直前まで振替業務は残っていました。この両替業務より継続されたのがアムステルダムなどの銀行機構 public bank でありました。銀行は、銀行券の流通よりも、こうした預金振替に基づいて発展したといえましょう。

(参考:黒田明伸 同上書)

第453夜 - 信用取引は先にあった

普通わたくしたちは、交換取引の歴史は先ず物々交換から始まり、次いで貨幣が生まれ商品と貨幣との同時交換が生じ、最後には信用取引が発達するという順序で経済が発展していくと思い込んでいます。ところがより仔細に調べますと、信用取引は随分古くから行われてきたことに気がつきます。16-17世紀には、新大陸の銀、すなわち、貨幣の元となる銀が流入していたにも拘らず、農村での貨幣使用はほとんど稀でしかなかったといわれています。取引には貨幣単位をもって行われるのですが、現金での取引は余り行われず、現物取引か信用取引が一般的でした。商人ですら多額の現金をもって決済することがなく、帳簿上の振り替えや塩のような商品での決済ですませていたのです。フランスの農村の古い記録からは、農業労働者への藁代金のようなものまでが信用取引で行われていたことが判ります。そのような信用取引が行われるには一つの条件があります。それは比較的小さな農村での近隣同士で行われることにあります。限定された人的関係に基づく信用取引であったのです。こうして黒田氏は次のように結論づけています。

中世末期から近世初期にかけての西欧では、日常的取引において、貨幣はもっぱら計算単位 unit of account として現れ、実体としては信用取引か商品貨幣によっていたことが窺われる。つまり、西欧社会はきわめて手交貨幣の日常使用を節約する志向をもった市場経済であったのである。

(参考:黒田明伸 同上書)

第454夜 - 価格は理論で決めることができるか

物の価格はどうして決まるのか、これを理論的に、あるいは経済学の方法論を使って説明するのは案外難しいことです。例えば鋼鉄の価格を考えてみましょう。
「多様な操作が利用できるよう:すべての鉄鋼生産者の価格リストを入手し、ある種の平均−ウェイトづけたり、ウェイトづけをしなかったりして−を計算することも可能である。彼らの売上収益−割引料、手数料、運送費の総額または純額−を確定し、それを出荷総トン数で割るということも可能である。鋼鉄のバイヤーからの報告を得、いろいろの方法でそれら数値を整理し、ウェイトづけし、あるいはまた巧妙に処理することも可能である。すべて適切であり合理的であるが、各々異なった結果をもたらす異なった操作の組を50ほども提示することも可能である。」
どうして価格は決まらないか?こんなことで経済学などいったい役に立つのだろうか。この原因は、「価格を操作する」ことが、「価格」という単純な構成物に完全に対応していないことにあります。「価格」というものは、「現実」によって指示された多大な複雑さからの抽象概念であるからです。こうした経済学の方法論の「操作主義」は、現象を掴もうとして現実には掴みきれていない、という欠点をもっております。わたしたちが、経済学を論理ー演繹的に捉えるのは、不純物を除いた抽象的な理論を求めるのが目的なのですから。だから経済学は役に立たない(=儲からない)といわれる非難も起こりえます。けれども論理ー演繹的な思考は、それだからといって棄却されて良いとはいえません。経済現象を純粋に見て論理的過程を探り、そこにいくつかの合理性を選択するという方法論はやはり必要です。でないと日々起こる事象に惑わされて、そのときはこう、あのときはこう、といった操作のみに頼るのでは、まさにときどきの事象に振り回されて何の結論もでないことになりましょう。

(参考:「鋼鉄の価格」の事例は、B.J.コールドウェル『実証主義を超えて』邦訳p.261-2より引用)

第455夜 -  極大化原理

近代経済学ですっかりおなじみの、人間は「効用の極大化」を求めるという公準は、果たして正しいでしょうか。確かにわたくしたちは、意識するとしないと効用を極大化させるように行動しているように思えますし、またそれが経済学のおける人間の合理的な行動原理だと納得もします。ところがこの極大化するという言葉は考えてみると空虚な響きに聞こえます。「消費者は効用を極大化する」という言葉はむしろ次のように言い換えたほうが説得的です。
          「選好は消費者により順序づけて配列される」
なるほど効用が極大化したかどうかその量を計ることは出来ません。がしかし、わたくしたちはAよりもBのほうを選ぶという行動は理解できるものでしょう。何故かと言いますと、前者=効用の極大化、よりも後者=選好の順序配列、の方が検討可能だからです。近代経済学の最近の議論は「極大化」よりも「選好」アプローチへ変化してきているようです。しかしなお疑いは晴れません。もし消費者の嗜好が変化したら?

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