前夜からの続き

第456夜から第460夜まで

第456夜 - 消費者の合理的意志決定

わたくしたちの嗜好は一生のうちには変化するものだということを認めれば、選好順序は推移性を示すことはできません。この選択における非推移性は、経済学の理論構築に少なからず影響を与えています。消費者は合理的に意思決定はしないとしたら、合理性の仮定は崩れてしまうのです。これを認めたがらない経済学者は次のような奇妙なレトリックを使って合理性の仮定を保持しようとします。
● 「限界効用に気をもまない、という限界効用」(ロビンズ)
● 「冷静な合理性を求める非合理的な感情」(J.M.クラーク)
経済学の方法論はこんなところへ迷い込んでしまうのです。

(参考:B.J.コールドウェル『実証主義を超えてー20世紀経済科学方法論』より)

第457夜 - 合理的経済人の仮定は正しいか?

マハループ(アメリカ経済学会の会長であった)はこんなことを述べています。
● 理論は良い理論によってのみ凌駕され、単に矛盾する事実によって凌駕されることはない
● 「現実世界」に言及しないので「合理的経済人」が理念的に構成される
こうして彼の主張は、食欲を刺激するが、空腹を満たさない、というもどかしさがあるのです。まことに理論にはそれがいかなる科学方法論であろうと限界があるのを否めないのです。

(コールドウェル:同上書より)

第458夜 - ゼロ・サム世界の幻想

クルーグマンという最新の優れた経済学者は、経済学をいわば常識の裏側から指摘するような特異な学者です。アメリカ国民の収入のうち、工業製品に支出する部分の割合が低下しているのは何故か?それは財が相対的に安くなったからだ。財とサービスの割合はほとんど変わっていないにもかかわらず、サービス業にくらべて製造業の生産性の伸び率が高かったからであると主張します。そうなれば財の生産性の上昇は消費者物価の低下をもたらします。サービス業にくらべて製造業の生産性の伸び率が高かったから物価の低下をもたらし工業製品への支出の割合が低くなったのであると言うのです。こう前提しておいてクルーグマンは次のような皮肉な結果をもたらします。
常識ではこの関係がほぼ正反対にとらえられている。雇用に占める製造業の比率が低下しているのは、生産性の伸び率が低く、製造業に競争力がなくなっているためだと主張する識者が多い。実際には逆に、生産性の伸び率が高いからこそ製造業の比率が低下してきたのである。
このように主張するクルーグマンは、明らかにレスター・サローの『大接戦』におけるゼロ・サム社会=食うか食われるか、を批判しているといえましょう。

(参考:ポール・クルーグマン『良い経済学悪い経済学』より)

第459夜 - アメリカ農業の生産性は高いのに・・・

アメリカ農業の生産性はきわめて高いのです。食糧の自給はもとより、世界各国に大量の農産物を輸出しています。しかし労働人口に占める農業部門の就業者はかなり低いのです(28%)。ここからクルーグマン独特の皮肉が引き出せます。アメリカの雇用増加の多くは外食産業や小売業が占めている。レストランで給仕したりレジを打つのに必要な人手は、10年1日のごとくで変わっていない。そうして生産性の高い産業では、雇用が増加するのではなく減少する、すなわち、時がたつにつれ増えていく仕事は、アメリカ経済が得意な分野の仕事ではなく、不得意な分野の仕事である、と。???

(参考:ポール・クルーグマン『良い経済学悪い経済学』より)

第460夜 -  眠っている好奇心

ソースタン・ヴェブレン(Thorstein Bunde Veblen, 1857-1929)がよく用いた言葉に "idle curiosity" というのがあります。いくつかの訳書ではこの言葉を、「むだな好奇心」とか「暇な好奇心」とか邦訳されていますが、訳語としてどうもしっくりいたしません。「むだな」では何か余計なやっかいものみたいな感じがしますし、「暇な」とすると無用な、退屈な語感を持ってしまいます。ヴェブレンがこの言葉を好んで用いましたのは、好奇心というものが、創造へ向けて人間の新奇性(novelty)を産む大切な概念だからなのです。普段は活動していないが、人間の好奇心は常に潜在していて何かの刺激によって目覚め新しいものを創造していく人間の本性を言い表したものです。そこで「ハテナ」は "idle curiosity" を「眠っている好奇心」、つまり普段は活動していないようにみえても何か新しい刺激があると目覚めて活動し、新しいものを生んでいく、という意味で(普段は)「眠っている」好奇心と訳しますがいかがでしょうか。

(参考:ヴェブレン:『経済的文明論』『有閑階級の理論』など)

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