前夜からの続き

第471夜から第475夜まで

第471夜 - 愛着にもとづくヒュームの思い

前夜でみましたように、ヒュームは、ムーア人について何の偏見も持たず、却って文明人の行動の不純さを鋭く批判しているのです。ヒュームはその「党派論」において、利害にもとづく党派、原理にもとづく党派、愛着(affection)にもとづく党派にそれぞれ区分し、前二者(利害、原理)を厳しく批判します。何故なら、利害にもとづく党派は一見合理的に見えようが、より強い階級がより弱い階級を抑圧するという専制的は政体を生む危険性を、そして原理にもとづく党派は、抽象的であるがゆえに、原理の対立が例えば宗教論争のように各人自身の道を歩むときの狂気、錯乱さえ生ずる危険を撞きます。そして最後の愛着にもとづく党派については、なるほど党派感情は激烈をきわめるけれども、それらのどちらにも荷担しない公平な第三者にとってはそんなにも熱烈な愛着を持つわけはないと言う一方で、「主権者としての威信と権力とが放つ眩むばかりの威光が、たった一人の人物の運命に対してさえ、重要な意味を持たせる」(ヒューム『市民の国について』下 p.181)と説いています。
セルバンテス流のドン・キホーテ的騎士道精神は恐らくこの愛着にもとづく党派に属すると考えられるでありましょう。

第472夜 - 汚れなきムーア人

ムーア人に好意的であったヒュームと同様に、それはギボンの『ローマ帝国衰亡史』にも見え隠れしているようです。ギボンは、教会の平和が乱された事情について、カトリック派には思慮が足りず、蛮族側は性急に過ぎた結果、西ゴート族の王エウリック(在位466-84年。過激なアウリス派)とヴァンダル派の過激な迫害の様を示したなかで、次のような描写をしています。
ローマ属州の贅沢さの中で育った市民らは、この上ない残忍さで砂漠のムーア人らに引き渡された。尊敬すべき司教、長老、助祭らが数珠つなぎよろしく、罪状も正確には確認されていない四千九十六人の忠実な群集と共に長い列を作らされて、ヘネリックの指令の下にそれぞれの生家から引きずり出された。彼らは夜は家畜の群さながら自分らの排泄物と同居で監禁され、昼は焼きつくような砂漠を越えてトボトボと歩かされた。もしも暑熱と疲労とで気を失ったりすれば、彼らは棒で突き立てられり無理矢理ひきずられたりして、果ては拷問者の手に抱かれて絶命するのだった。これら不幸な追放者たちはムーア人の小屋に辿り着くと、この民族の同情を誘うこともあった。うまれながらの人情味が、理性によって磨かれてもいない代りに、狂信に汚されてもいない民族だったのだ。(赤字は引用者。ギボン『ローマ帝国衰亡史VI』第37章p.118-119)

だからこそ、シェイクスピアがその悲劇の主役として、さして理性的とは言えないが高潔にして気品を漂わすオセロウにムーア人を選んだのかも知れません。いや、順序はむしろ逆で、ヒュームもギボンもシェイクスピアから何かの影響を受けたと言ったほうがよいのかもしれません。

大分前置きが長くなりましたが、これらを背景にいよいよムーア人の登場する『オセロウ』にご案内することといたしましょう。

(上図は、Jack D'Amico The Moor in English Renaissance Drama より)

第473夜 - ムーア人の『オセロウ』

大公 言ってみるがいい、デズデモウナ。
デズデモウナ わたしがムーアさまを恋してともに暮らしたく思いましたことは、
  わたしがあえて世の常の掟を破って運命にさからったことから、
  世間に知れわたることでございましょう。それは
  夫の職業(つとめ)をも承知の上のことでございます。
  わたしはオセロウの姿をあの方の心の中に見ました。
  そしてあの方の名誉と勇気に
  わたしの魂と運命をささげました。・・・
大公 よろしい。
  ・・・すぐれた者にはおのずから喜ばしい美が備わる、と言うから
  あなたの婿(
むこ)は、色は黒くとも、非常に美しい男だよ。
イアーゴウ ・・・おれはムーアが憎い。
  ・・・ムーアはおおまかな、開けっぴろげ性質(
たち)で
  見かけだけで人間が正直だなどと思いこんでしまう。
  鼻っさきをつかんでやすやすと引きまわしてやれる、
  驢馬(
ろば)のように。
  ・・・
                                    
(『オセロウ』 岩波文庫)

上は、オセロウを愛するデズデモウナと、オセロウを憎む奸臣(オセロウの旗手)イアーゴウのセリフの抜粋です。1604年に、最初に上演されたといわれる『オセロウ』の評判については、幸い、福田恆存訳の巻末に評論家たちの批判集が掲載されているので参考になります*。

*『オセロウ』 福田恆存訳 シェイクスピア全集11.

これらの評論家たちはどう見ているのでしょうか。次夜で明らかにしていきましょう。

第474夜 - 『オセロウ』を評するひとびと

なんといっても代表的なものは、サミュエル・ジョンソンでありましょう。彼は言います、「オセローは驚くほど率直であり、寛大であり、無技巧であり、他人の言を信じやすく、限りなく他人を信頼する。その愛情は熱烈であるが、ひとたび決意するや、その決意は確乎として揺るがず、頑なにその復讐をはかるのである。冷酷な敵意を胸に秘めたイアーゴウは、それを臆気にも出さず、その計略は緻密であり、おのれの利益となるやう、同時にまた復讐も遂行できるやう、慎重に事をはこぶのである。さらにはまた、デズデモーナのやさしさと単純さ。自分の美点を確信し、淡白を意識し、(中略)自分が疑はれてゐるといふことには、なかなか気がつかないのである。」
ハズリットという人は、「本来ムーアは高潔で、人を疑わず、情け深く、また寛大な男である。けれどもかれは、いたって沸きたち易い血を受けて生まれてきたのだ。ひとたび裏切られたと信じるや、彼は自暴自棄の状態となり、激情のおもむくまま、そのとどまるところを知らない。自責も憐憫も、たぎりたつオセローの激情を抑へられぬのである。」と言っています。

第475夜 -  エリオットの場合

さまざまな評論のなかでも異色の意見を持つのはT・S・エリオットです。彼はこの悲劇のなかにオセロウの人間の弱さを見ています。「高潔な、けれども間違ひを犯した男が、その敗北にあたっても依然として偉大であることを示している」と言います。また、「オセローはこのセリフを述べながら自分を励ましているのだ」、「かれは現実から逃避しようとしてゐるのであり、もはやデズデモーナのことを忘れ、自分のことだけしか考えてゐないのだ。謙譲こそはもっとも身につけがたい美徳であって、自分をよく思いたいという欲望ほど、根絶しがたいものはない。オセローの態度も、最後の瞬間には、倫理的であるよりはむしろ美的な態度であった。つまり、かれは自分を悲壮な人物に仕たてあげようとし、それに成功したわけであり、そのためには、環境を材料にして、自己劇化を試みねばならなかったのである。かれは周囲の人物をだます。が、このさい、もっともありがちな心理は、それよりも、自分自身をだますことである。この種のボヴァリズム(bovarism: うぬぼれ(引用者))、すなわち物事を実際とはちがったふうに見ようとする願望を、シェイクスピアほどはっきり表出した作家は他にない、私はそう信じている。」

このエリオットの批評のなかに、ヒュームとの類似性があることを「ハテナ」は発見するのです。何故かといいますと、第一に、それはまさにムーア人より発する騎士道精神が発情されたものでしょう。第二に、自己劇化、ボヴァリズムに現われるように、まさに騎士道精神の妄想の結果であるといえそうだからです。

(参考:『オセロウ』 福田恆存訳 シェイクスピア全集11.)

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