小泉首相の政治的パフォーマンスはよく劇場型と言われますが、この劇場型というのはどういうことなのか?その謂れはどこにあったのか、と調べてみますと、「ハテナ」にはそれがどうも19世紀中葉のイギリスに淵源を持つと見られる節があるようです。ウォルター・バジョット(1826-1877年)は、国制には「威厳的な部分」が必要だと言います。「威厳的部分」というのは、国家諸制度の中でも「それが本来持っている有用性のゆえにではなく、それが持つ想像的魅力、とくに無教養で粗野な民衆を引きつける力のゆえに国制の中に保持されている部分」のことであります。それが最も良く発揮されたのはイギリスの国制でした。英国経済史の大家である A.ブリッグズは,次のように述べています。
威厳も等しく重要であった。公衆の心を捉えたのは、国家制度のよしあしではなく、それが持つ威厳であった。本を読む知識階級にたいしては、新聞、とくに「タイムズ」紙が影響力を振ったかもしれない。だが、本など読まない一般大衆にたいしては、統治における儀式的・劇場的要素が、その心を捉えたのである。「神秘的なことを言うもの、行動が秘儀めいているもの、目にあでやかなもの、一瞬生き生きと見えて、つぎの瞬間はそうでなくなるもの、隠されているようで隠されてないもの、見かけ倒しだが変に面白いもの、見たところ触(さわ)れそうだが、触(さわ)ったら後がこわいと思えるもの、この体のものが、ーしかも、この体のものだけがーたとえ形がどう変われ、また、われわれがそれをどう定義し、どう描こうと、大衆の心を捉えるのである」。威厳とそれへの忠誠は、従順と並んで、ヴィクトリア中期の国制の核心に存在した。
上に見られるように、バジョットはいささか皮肉めいて論じられていますが、「ハテナ」には、今日よく耳にする劇場国家、小泉劇場といった言葉は、このバジョットの考えに発しているように思えるのです。