前夜からの続き

第481夜から第485夜まで

第481夜 - アダム・スミスの喩え

ムーアに関する締めくくりとして最後に、経済学の父たるアダム・スミスがそれに触れているかどうか、を調べてみましょう。ありました!『道徳感情論』のなかで次のような言説に出会います。

ムーアの馬の美しさは、イギリスの馬のそれと、正確におなじではない。人間の体形と容貌の美しさについて、さまざまな国民において、いかにさまざまな観念が形成されることか。白い肌色、ギネア海岸では、驚くべきみにくさである。厚い唇とたいらな鼻が、美しさなのである。若干の国民においては、肩までたれさがる長い耳が、普遍的な感嘆の対象である。シナでは、女性の足が歩くのに適当なほど大きいと、彼女はみにくい怪物とみなされる。北アメリカの未開諸国民のうちのあるものは、かれらの子どもたちの頭のまわりに四枚の板をしばりつけ、こうして、骨がやわらかくて未成熟なあいだに、頭をしめつけてほとんど完全な四角形にするのである。ヨーロッパ人たちは、この慣行の背理的な野蛮さのせいにしてきた。しかし、かれらがそれらの未開人たちを非難するとき、ヨーロッパではまったくこの数年まえまでは、貴婦人たちが過去一世紀ちかくのあいだ、かれらの自然の体形の美しいまるみを、おなじ種類の四角形にしめつけようと努力してきたことについては、反省していないのである。しかも、この慣行がひきおこすことが知られていた、おおくの畸形化と病気にもかかわらず、慣習はそれを、世界がこれまで見たかぎりでおそらくもっとも文明化した諸国民のうちの若干において、快適なものとしてしまったのである。

(参照:アダム・スミス『道徳感情論』(下)岩波文庫 p.60-61)

第482夜 - ダーウィンの悪夢

「ダーウィンの箱庭」と呼ばれたヴィクトリア湖は、やがてナイルバーチという肉食魚によって多彩で豊かな魚の棲む湖を一変させてしまいました。ダーウィンのいう「適者生存」という考えに照らせば、ナイルバーチはみずからが「適合種」であったということになってしまいます。今流行の言葉でいえば、ナイルバーチは「勝ち組」ということでしょう。この影響はさまざまなところに現われてきます。ナイルバーチは外来の肉食魚でありましたが、一方でヴィクトリア湖の固有種を一掃してしまいました。ヴィクトリア湖のもたらす自然の恵みで生計を立てていた共同体は崩壊し、飢餓と貧困が支配することになりました。これは、ダーウィンの「箱庭」が「悪夢」へ転じる一つの寓話です。適者生存と自然淘汰というダーウィンの説はまかり間違えばこういった悲劇にもなるのです。このようにわたくしたちの競争社会も、一方で競争によって物が安くなる、すぐれた製品が生まれる反面、その手法の良し悪しを問わず勝ち組だけが残り、横行する、という現象を生ずることになります。競争が独占を生む、というのは何と皮肉な「競争のパラドックス」でしょうか。

第483夜 - 劇場国家とは

小泉首相の政治的パフォーマンスはよく劇場型と言われますが、この劇場型というのはどういうことなのか?その謂れはどこにあったのか、と調べてみますと、「ハテナ」にはそれがどうも19世紀中葉のイギリスに淵源を持つと見られる節があるようです。ウォルター・バジョット(1826-1877年)は、国制には「威厳的な部分」が必要だと言います。「威厳的部分」というのは、国家諸制度の中でも「それが本来持っている有用性のゆえにではなく、それが持つ想像的魅力、とくに無教養で粗野な民衆を引きつける力のゆえに国制の中に保持されている部分」のことであります。それが最も良く発揮されたのはイギリスの国制でした。英国経済史の大家である A.ブリッグズは,次のように述べています。
威厳も等しく重要であった。公衆の心を捉えたのは、国家制度のよしあしではなく、それが持つ威厳であった。本を読む知識階級にたいしては、新聞、とくに「タイムズ」紙が影響力を振ったかもしれない。だが、本など読まない一般大衆にたいしては、統治における儀式的・劇場的要素が、その心を捉えたのである。「神秘的なことを言うもの、行動が秘儀めいているもの、目にあでやかなもの、一瞬生き生きと見えて、つぎの瞬間はそうでなくなるもの、隠されているようで隠されてないもの、見かけ倒しだが変に面白いもの、見たところ触(さわれそうだが、触(さわったら後がこわいと思えるもの、この体のものが、ーしかも、この体のものだけがーたとえ形がどう変われ、また、われわれがそれをどう定義し、どう描こうと、大衆の心を捉えるのである」。威厳とそれへの忠誠は、従順と並んで、ヴィクトリア中期の国制の核心に存在した。

上に見られるように、バジョットはいささか皮肉めいて論じられていますが、「ハテナ」には、今日よく耳にする劇場国家、小泉劇場といった言葉は、このバジョットの考えに発しているように思えるのです。

(参考: A.ブリッグズ『ヴィクトリア朝の人びと』 W.バジョット『イギリス憲政論』より)

第484夜 - 従順と威厳

恐らくバジョットは、上からの威厳と下からの従順をもとに劇場国家を考えていたに違いありません。ときおりバジョットにはハッとさせられるようなレトリック、皮肉な言説が見られます。例えば、「従順な社会は、その最下層の社会がたとえ知力に欠けていても他のような民主国家以上に、はるかに内閣制度の統治方式にむいている。・・・貧民が目上の人を尊敬する国は、貧民のいない、それゆえに目上の人に対する尊敬もない国と比べて、幸せの度合でははるかに劣っても、最善の政府をつくるという点では、はるかに勝るのである。」 なんだこれではバジョットは衆愚政治のことを言っているのではないか、と批判する人もいるでしょう。事実「最大多数の最大幸福」を唱えたのはジェレミ・ベンサムでしたが、バジョットは、幸福を良き政府の前提条件とも、より優越した目的とも見ませんでした。彼のいう「良き政府」とは討論のうえに基礎づけられる政府のことであり、多数によってではなく、「選ばれた小数者」によってもっともよく運営される、と考えるのでした。現実的で冷徹なバジョットの目は冴えていると思えます。だからバジョットのいう意味での劇場国家とは、今日の日本における劇場型国家とはかなり異なります。日本ではどうやらマスコミがエンターテイメント性を狙って面白おかしく劇場にしてしまったのかも知れません。

(参考:A. ブリッグズ 『ヴィクトリア朝の人びと』)

第485夜 -  バジョットのみる劇場国家

それではバジョットは劇場国家をどう描いていたのでしょうか。『イギリス憲政論』にはこんな風に書かれています。

・・・中産階級は、教養ある人士の中で多数を占める平凡人であるが、現在ではイギリスにおいて専制的な勢力をもっている。「世論」は、今では「乗り合い馬車のうしろに乗っている、はげ頭の意見である」。・・・選挙民の大多数を見てみると、かれらが全くつまらない人間であることがわかるであろう。またその裏面をのぞいて、選挙区を操縦し、動かしている人物を見てみると、これまた選挙民に輪をかけたような、くだらない連中であることがわかるであろう。・・・

実際にはイギリス国民の大多数は、指導者を尊敬するというよりは、むしろなにか別の人間に尊敬の念をいだいているのである。かれらは、いわゆる社会の演劇的な見せ物に敬意を払っている。かれらの面前を華麗な行列が通り過ぎる。威厳を正したお偉方や、きらびやかな美しい婦人たちが通って行く。そしてこのような富や享楽のすばらしい景観が展開すると、かれらはそれに威圧される。すなわちかれらは、想像の世界で屈服し、かれらの前に展開する生活ぶりをながめて、とうてい対抗できないと感じるのである。・・・俳優のほうが国家よりもはるかにすばらしい演技を行う舞台なのである。

何とも辛辣な評言ではありませんか。

(参照: バジョット『イギリス憲政論』p.279-280)

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