前夜からの続き

第496夜から第500夜まで

第496夜 - 無言の不況

アメリカの経済学者であり思想家でもあるハイルブローナーがその著のなかで二つの「無言の不況」という言葉を使っています。これが何を意味するかを「ハテナ」流に理解しますと以下のとおりです。

第一の「無言の不況」は、資本主義が今後どうなっていくかについての無言の不況が存するということです。なるほど社会主義は敗北したが、果たして資本主義が勝利したといえるのかどうか、という無言の不況下に置かれている、ということであります。

第二の「無言の不況」は、個人の幸福についてであります。福祉国家が崩壊しつつあるなかで、医療、年金などの社会保障制度に対する不安が大きくなって来ており、経済が繁栄しても個人の幸せを保証してくれるかどうかという、「無言の不況」であります。この第二の不況は、もはや無言といえず明らかに顕在化しているといってもよいでしょう。

そしてハイルブローナーは、フランスの経済評論家シスモンディ(Simonde de Sismondi)がイギリスについて述べた次の言葉を引用しています。

・・・富がすべてであり、人間はまったく問題にならないのか。・・・事実そうならば、国王だけが島に残り、絶えずクランク(crank 回転軸:ハテナ注)を回して自動機械によってイギリスの全生産物を産出することを願うしかない。

ここでの国王は誰か。「ハテナ」は、権力者あるいは勝ち組と置き換えて理解しています。

(参考:ロバート・ハイルブローナー『未来へのビジョン「遠い過去、昨日、今日、明日」』)

第497夜 - ヴィクトリア中期のイギリスの良さ

イギリスの19世紀の特徴は、「漸進的な改良」にあると言われます。なるほど1851年に催された万国博覧会は、イギリスの黄金時代を画するものでした。様々な新発明、新しい産業の息吹が見られ世界に先駆けて進歩の時代を告げるものではありました。それにも拘らずイギリスは急進的にならず漸進的な改良、敢えて言えば「緩慢さ」に特色が見られました。「緩慢な」イギリス人が「よい」政府をつくったのです。この時代に生きたバジョット(1826-1877年)は、「われわれは通常、社会を活性化しないものをうすのろと称して馬鹿にするが、このうすのろであることが、行動の持続性と意見の一貫性を守る上で一番自然の理にかなっているのである」と書いています。バジョットという人は、活動家であるよりは観察者で、それも鋭利でしばしば皮肉な観察者でありました。このイギリス人の気質を「ハテナ」は他の何よりも買っています。イギリスへ旅行もしたことのない「ハテナ」はこの国に限りない愛着を持ち続けているのです。
さて典型的なもう一人の人物を挙げるとすれば、それはサミュエル・スマイルズ(1812-1904)でしょう。『自助論』で有名なイギリスの作家・医者です。スマイルズは貯蓄の経済的要因よりも道徳的なそれに力点を置いています。いわく、人が蓄えた僅かな資本は、「つねに力の源泉である。彼はもはや、時代にも運命にも、もて遊ばれない。彼はこの世の中を大胆に正視することができる。・・・彼は自分の条件を押しつけることができる。彼は買われも売られもしない。彼は、満ち足りた幸せな老後を期待することができる」と。
その後に現われたケインズ学派の考えとはかなり違っていますね。ケインズ学派のいう消費抑制(貯蓄と言わないのが面白い)の八つの動機である、用心、先見、計算、改善、独立、企画、誇り、貪欲、のうち最後の二つを軽侮の念で退けるでしょう。やがてこれらの考えは20世紀に入ると新しい経済学を迎えます。そうして生まれたのがケインズの『雇用、利子、貨幣の一般理論』(1936年)でした。スマイルズのような考え方、そして生き方はまるで古く、消費は美徳とさえ言われる現代ですが、にもかかわらず「ハテナ」には、ロバート・ブラッチフォードがスマイルズについて次のように描いた文脈が今日にもなお生きているように響きます。

正直な貧乏人の方が悪い金持ちよりずっとましでずっと尊敬に値する。卑しい寡黙な人の方が陽気で立派な家に住み、二輪馬車を持っている嘘つきよりずっといいのだ。社会的地位がどのようであれ、中庸をえて充実した精神と有用な目的に満ちあふれた人生の方が、普通の世間的な立派さよりはるかに重要なのである。(ブリッグズ『ヴィクトリア朝の人びと』p.180)

(参考:A.ブリッグズ『ヴィクトリア朝の人びと』 より)

第498夜 - マルサスの神

『人口論』で有名なマルサスは、同時に敬虔な神学者でありました。そのほか『経済学原理』等数々の著作をものにした経済学者でもありました。では、マルサスにとって経済の原理と聖職者としての神とはどう調和したのか、あるいは矛盾したのかが関心の的となりましょう。マルサス自身は”私の最大の夢は地方での静かな生活”であると手紙に綴っています。それというのもマルサスは、言語障害(口蓋症)のため国教会での昇進が難しいとされていたからでした。しかし『人口論』で一躍有名となった(あるいは悪名を馳せた)マルサスの人口の原理や、優れて理論的な『経済学原理』は、その宗教とはどういう関連があるのかが問題になってきます。いったいマルサスは神を捨てた(神義論の棄却)のか、信仰に変容を来したのか、という疑問が出るのももっともなことだと思われます。何故ならマルサスの理論的な方法論は一貫してニュートン的であった、という説も成り立つのです。マルサスは若い頃からニュートンの『プリンキピア』を読んでいます。因みにダーウィンはその自伝のなかで、たまたま楽しみのために(for amusement)マルサスの『人口論』を読んですごく共鳴し長い年月を掛けて『種の起源』を完成させました。しかしマルサスの思考は決してダーウィン的でなくて対極的ともいえるニュートンにあったから不思議な縁です。確かに初版『人口論』の最後の2章は神について献身的に述べられていましたが、第2版以降で削除されてしまったのです。そこでマルサスの神はどうなったのか、という疑問が湧いてくるのです。また一方、マルサスの神と経済理論とは矛盾しないという学説も有力です。例えばマルサス研究の権威プレンは、”人口統計学者マルサスは神学者マルサスと分離しえない””マルサスは『人口論』をして経済学者・人口統計学・社会学の論文であると同程度に神学論文にしようとしたと言っても多分言い過ぎにはならないだろう”と論じております。反対にウィクセルはマルサスの神学思想を低く評価し『人口論』のほうを高評価しています。
こうしてマルサスの神はどうなったのか、という当初の疑問に戻ります。「ハテナ」は神義論を棄却したほうが、マルサスの理論を理解しやすいと考えるのですが、しかしマルサスはその生涯を敬虔な聖職者として過ごしましたから、聖職者マルサスを否定することも出来ません。科学的な理論家でありながら、クリスチャンとしての生き方を両立させた学者は実際にかなり存在していますので(たとえば新渡戸稲造や矢内原忠雄など)、理論と宗教を厳密に区別しなおかつ理論家で宗教心に篤い学者の存在も可能である、と考えています。

(参考:橋本比登志『マルサス研究』)

第499夜 - イギリスの貴族

イギリスの社会層くらいそのステイタスが階層別に分けられているのは珍しいのです。下の表はスチュアート朝(1371〜1714年)期のステイタスをしめしています。ラスレット『われら失いし世界』の中の資料によりますと、まず、表の真ん中の線(〔たんなる〕ジェントルマンや聖職者)の下に区分線を引いてあることに大きな意味があります。その線から上は上層部、すなわち、貴族とジェントリから成り、線から下の層はステイタスにあまりあずからない人々です。

上のクラスの特徴は、特権階級に属し、非生産活動に専心していることです。つまりジェントルマンの最大の特徴は、レジャーに従事し、遊びでない生産活動には身体を使わないということなのでした。言葉を換えて言えば、「閑があること」こそがジェントルマンの特徴だったのです。

一方、から下のクラスは、むしろ階層などとは言い表せないほどの最下層を構成していました。しかもそのクラスは、当時のイギリス総人口の過半数を占めていました。かれらは「王国の富を減少させる」と言われ、イギリスが工業化する以前には人口の半数以上がつねに貧困と映ったといっても言い過ぎではなかったのです。今日のような「中産階級」という言葉はほとんど使われていませんでした。『われら失いし世界』の著者ラスレットは、次のように描写しています。「いまなら、医師や弁護士、様々な技術者、教師、建築家、官吏などがこの種の社会層の中心と考えられよう。しかし、「われら失いし世界」における「専門職」については、現在のアフリカと同じで、その人数がほんの一握りであったということ以外には、何もいえない。」と。
下表のヨーマンはまだしも、レイバラー以下となりますと、もうかつて古代ローマ人が「無産者」(プロレタリイ)ないし「その日暮らしの人間」(オペラーリ)と呼んだ人々で、ここから古代ローマ人が用いた「プロレタリア」という言葉が使われたのです。すなわち、この言葉の意味は、「子孫(プローレス)を残す以外には社会に対して何の貢献もしない人」であったということでした。

このような時代を生きたイギリス人は、その後顕著に発展していきますが、相変わらず階層意識は強く今日にも残っており、特にイギリスの貴族の伝統やマナーは今日に引き継がれております。
             ステユアート朝期イギリスのステイタス表

 
階層
称号
呼びかけ
身分名
職業名
1.公爵
ロード(卿)
ザ・ライト・オナラブル
貴族
なし
  大主教
(レイディ) 
ジ・オナラブル
(ノーブルマン) 
2. 侯爵
ザ・ロード
  3. 伯爵
ザ・レディ  
  4. 子爵
マイ・ロード  
  5. 男爵
ユア・グレイス
  主教
ユア・ロードシップ
       ユア・レディシップ など    
         
6. 準男爵  
サー
 
ジェントルマン
 〔専門職〕
7. ナイト  
 デイム
ザ・ワーツッブフル
陸軍将校
    ユア・ワーショップ など   医師
  8. エスクワイア  
ミスター
  
法律博士
  9. (たんなる)
ミセス
 
貿易商
   ジェントルマン
 
   など
   聖職者  
〔サー〕
  〔ユア・レヴェレンス〕  
            
  10. ヨーマン
グットマン
ワージー  
ヨーマン
ハズバンドマン
  11. ハズバンドマン
グッドワイフ
   12. クラフツマン
なし
姓名のみ
なし
職種名
  
 トレイズマン
  々
  々
なし
(大工など)
     職人   
  々
なし
々 
  13. レイバラー   々
  々
なし
レイバラー
  14. コテイジャー   々
  々
なし
なし
 
被救済民
  々
  々
なし
なし

 出所:ラスレット『われら失いし世界』 近代イ社会

(参考:ラスレット『われら失いし世界』 代イギリス社会史より)

第500夜 - 福祉国家の危機と再生

不思議なことにこの前の郵政解散のとき、各党のマニフェストは、年金、医療、暮らしのことは大きく採り上げたのに、どの党も「福祉国家」を正面切って掲げませんでした(社民党がやや近かった)。福祉国家というと”大きな政府”を標榜し国民の税負担が増えるというイメージを避けたからでしょう。このようにこれまでの福祉国家の政策は完全に行き詰まってきています。租税負担に頼るだけの受動的な福祉国家は今後は展望できません。そこで新しい福祉のあり方が論じられています。その論客の一人にフランスのロザンヴァロンという人がいます。彼は能動的福祉国家論を唱えます。その考えは、貧困者にただ扶助を与えるという考えを捨てて貧しい者が極力社会的参入を果たせるように国家が関与していくというものです。たとえば交通事故によって社会的コストが増え、これは個人で負担できない、そこでシートベルトの義務づけが正当化される、というように新たな社会政策は、個人的なものから社会的なものへと転換していく、というのです。そのうえ未来には「衛生的に正しい」社会へとして喫煙や飲酒が罰則化され、ついでに健康上から食事まで規制される、というアイロニーも付け加えるあたりいかにもフランスの著者らしい。要は福祉が個人的なもの(扶助)から社会的なものへ移っていくことを著者は力説するのです。そして著者は「社会参入最低所得」(RMI)を唱道します。所得を失って生活水準が低下したり、教育の機会が奪われたり、人々との結びつきが失われたり、自己のアイデンティティーを喪失したりするのを単に経済問題としてのみ語り得るものではなく、社会が彼らを排除していることに問題があると見ます。そのためには「排除」から「参入」あるいは「組み入れ」を考えていかなければならない、と考えます。換言すれば社会権を認めようという主張です。そこからこれまでの福祉国家とは違って福祉国家の根源にある「政治的なもの」の再建が必要だと説くのです。この政治的な観点に立てば、福祉国家が保険的な考えではなく真の意味での租税によって賄われる意味づけも再認識される、と結論されるのです。

(参考:ピエール・ロザンヴァロン『連帯の新たなる哲学』より)

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