前夜からの続き

第101夜から第105夜まで

第101夜 - 乞食はブルジョア?

「幸福論」で著名なアラン(Alain 1868〜1951年)もまた経済学に精通しています。「アラン経済随筆」のなかから珠玉の言葉を抜き出しご紹介しましょう。先ず末尾の訳者解説から(橋田和道)。

ブルジョアとプロレタリアの違いは富にあるのではなく、富を得るやり方にある。だから口先で奪う詐欺師はブルジョアであり、腕力で奪う押し込み強盗はプロレタリアである。精神科医はブルジョアであり、外科医はプロレタリアである。乞食は全く懇願だけで生活するから、まさにブルジョアの典型である。プロレタリアの出身でも、たとえば代議士になるともうブルジョアであり、組合専従もブルジョアである。

この言葉なんかは、通常の経済学からは出てきませんね。コチコチの経済学者の頭でなく思想家アランにして始めて生まれる発想だと思いますし、そんな考え方が経済学の領域を柔軟にそして幅広く発展させると思うのですが、いかがでしょうか。

第102夜 - ワイシャツとネクタイ

前夜に続いてアランの随想を。アランは人間が汗してものを作る労働を大切にして、口先だけの輩を毛嫌いしています。

企業、戦闘、銀行・・・を、あるいはどんなものであれ、これらを台なしにするのは、ワイシャツとネクタイの甘い説得と弁舌なのだ。人間は信じさせたり自らも信じたりして、この信用のうえにもろい城を築く。・・・・・・今恐るべきは「空っぽの頭」である。そうして、「舌先の徒」と 「ワイシャツの 烏賊胸(いかむね )」とが、自らそれと知らずに盗み、現実にありもしない富からさえも盗む。この愚行は空恐ろしい・・・・・・。

ちょっと抽象的なレトリックではありますが、何となく判るような気がしませんか。

(『アラン経済随筆』より)

第103夜 -商業と生産

引き続きもう少しアランの謦咳に接してみましょう。アランはどうやら生産、労働を重んじているようです。生産や製造の技術は販売の技術よりもはるかに進んでいる、として、次のように言っています。

われわれは生産をする場合には賢明なのに、売るとか買うとかいう段になると、なぜ、猿のように、目先が利かず、貪欲で、軽はずみで、忘れっぽいのか、と。生産に携わる者は、怠け者を追い出し、作業過程を削り、規格を統一し、力を集中する。ところが商業は、われわれの富を空中に放り・・・飛行機の煙で名前や値段を描いたりする。仲介業者が繁殖し、広告代理人が駆け回る・・・。無益な労働は産物を残さない労働だとアランは言い、なぜそんな無益な労働があるのか、それは商業が賢明になれないからだ。なぜ賢明になれないのか。それは買い手の奔放な想像力に規律がないからだと断じます。そして、

”生産は科学によってなされ、販売は魔術によってなされる”と締めくくっています。

だが待てよ、こう言うと商業やサービス業に携わる人々から猛烈な反論が出るでしょう。われわれが居ればこそ売り上げが増進し、われわれが消費者のニーズや満足を適切にキャッチするからこそそれに基づいて生産が行われるのだ等々と。一つの会社の中でも営業畑と技術畑とで意見の対立を経験された方々も多いでしょう。

そこで「ハテナ博士」はこう考えております。つまり、アランという人は今日のような情報社会の時代に生きた人ではなく、かつての良き時代、美しい田園での生活への郷愁をこよなく持ち続けた思索家ではなかったか、と考えます。

第104夜 - 組織のいたずら

組織のいたずらとは、事業は太るのに利益は痩せる、とアランは指摘します。今日のサラリーマン経営者は組織の産物です。働いている者より働かせている者のほうが給料はずっといいのです。そしてアランは、このように皮肉っています。「サラリーマン経営者」は、目もくらまんばかりの高みに昇り、研究と統計の事務所を増やす。われらが優秀な頭脳のありようはこんなものだ。一般経費がかかるのは組織運営者の生活がかかっているからだ、と。まして国家のからむ事業は今日の日本でも盛んに議論されているように(お役所の無駄遣い?)、費やせば費やすだけ彼らにとっては豊かになる、といったらブーイングが起こるでしょうか?

第105夜 -令嬢と家令のお話

くどいよ!とお小言を頂くかもしれませんが、アランの随想についてもう一つ。令嬢のステラはある日、家令に言いました。「何でもできぱきなさるあなた方のような人がいなかったら私はどうなるの」。だが年老いた家令は「滅相もないことです」と応えます。「私どもが生活できますのも、ひとえにお嬢さまやご両親のおかげでございます。もしお嬢さまが、思い切ってご自分のことは御自分でなさるようになりますと、私どもは干上がってしまうでしょう」。石屋は言う。「金持ちが建築させないとなると、おれはどうして生きていけるのか」。宿屋の亭主、「この連中が皆、海岸に遊びに来ないとなると、私はみじめなものでしょう」。

そしてアランは、結局世の中の人間が皆働けば、この世にはもう貧乏人しかいない、ということになる・・・自動車よ、お願いだから道路を傷めておくれ。伊達男よ、毎週服を取り換えて下さい。この世の神々よ、お祭りや舞踏会を与えたまえ、というわけです。

何とも皮肉なレトリックではないでしょうか。アランのこの皮肉の裏には、人間の労働の神聖さを逆に訴えているように「ハテナ博士」には思えるのですが。

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