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前夜からの続き

第146夜から第150夜まで

第146夜 - 強いことと優しいこと

よく、男は、”強くなければ生きられない。優しくなければ生きている価値がない。”というセリフを見聞きしますが、この言葉は誰が何処で言った言葉なのでしょうか。ハードボイルド小説の第一人者、レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』のなかの会話に出てくるのです。

「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」と、彼女は信じられないように訊ねた。
「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きていく資格がない」

いかにもハードボイルド第一人者にふさわしい、きざなセリフですね。

(レイモンド・チャンドラー:『プレイバック』 清水俊二訳 ハヤカワ・ミステリ文庫p.232.)

第147夜 - 不胎化とは変な言葉ですね

経済学でよく不胎化政策とか不胎化介入とか、変な言葉が使われます。一体何のことで、どうしてこんな変な言葉が用いられるのでしょうか。先ず、介入とは為替レートの変動を防ぐために使われる言葉。例えば為替レートの過度な円高を防ぐため、外国為替市場においてドルを買い、円を売って、ドル安を防ぐための操作を言います。その際、円を売る訳ですから国内の貨幣供給が増えてしまいますので、その影響を及ぼさないようにということを不胎化と言い介入と合わせて、不胎化介入と名付けられたのでしょう。介入のやり方は、先ず政府はドルを買うための円が必要ですね。そこで政府は短期国債に当たる外為証券を発行して日本銀行に引き受けてもらうか、民間銀行に売却してその代わり金の円を調達します。次に日本銀行の出すベースマネー(外為証券を引き受けた分)が増えるのをどうするか。そのまま放っておけば日本のマネーサプライは拡大します。しかし、日本銀行はベースマネーの規模をコントロールしていますから、拡大した分を吸収してベースマネーを一定に保とうとします。。それのために日本銀行は、他の形で市中から資金を吸収するのです。これを不胎化政策というのです。

この不胎化の効果をめぐって一時は大きな論争が起こりました。その議論のひとつは、国内のベースマネーやマネーサプライに影響を及ぼさないような介入には大きな期待は寄せられないというものです。経済学者のいう本来の期待とは、為替介入、つまりドル買い・円売りの介入によりマネーサプライが拡大して金利が下がり、円高が是正されるという効果のほうに期待するのです。つまり不胎化介入に反対ないし批判する声です。

この論争は一時はもてはやされましたが、現今の日本の金融市場は、@すでにかなりの余剰資金が市中に出回っていること。A短期の金利がゼロにまで来てしまっていること。以上の点で、介入が不胎化されるかどうか、についての関心は今では薄らいでしまった感がします。むしろこの問題は国際金融として他国ことに東南アジアや南米諸国にとって重要な視点をあたえるのではないかと「ハテナ」は考えております。

第148夜 - マルチとバイ

自由貿易のあり方を巡る視点として、多国間での自由貿易(マルチ)と二国間での自由貿易(バイ)の二つの交渉をどう見ればいいのでしょう。スイスのジュネーブに本部があるWTO(世界貿易機関)は、前者マルチの交渉の場です。これに対してFTA(自由貿易協定)は、二国あるいは地域内で域内の関税を撤廃するバイの交渉に当たります。ところがこのマルチ(多国間)とバイ(二国間)の関係が今ひとつよく判らない。さらにはこういう比較もできますね。地域経済協定(バイ)を結ぶことは域内国の間での貿易が拡大するから望ましいでしょう。これを貿易創造効果といいます。ところが、これによって域外国との貿易が歪められるのではかえって好ましくないことになるでしょう。これを貿易転換効果といいます。こう見るとグローバル化にとって地域経済協定はプラスに働くかマイナスに働くか議論の分かれるところとなりましょう。ジャグディシュ・バグワッティというコロンビア大学教授は、地域経済協定が多くの国で増えていくのは、世界全体の貿易自由化のビルディング・ブロック(building block: 積み石)になるのか、逆にスタンブリング・ブロック(stumbling block: 躓き石)になるのか、と問題提起をしています。バグワティ教授はむしろ地域経済協定が増えると多国間の貿易の枠組みが弱体化するという見解の持ち主でしょう。地域経済協定によって世界経済がブロック化され、結局もし欧州、南米アメリカ、アジア地域の三つのブロックに分けられたとき最悪になる、とポール・クルーグマン教授は指摘しています。

バイによってマルチが侵されることは、現在のWTO(マルチ)の下での自由化交渉を困難にしそうです。結論的には、FTA(バイ)交渉を最大限に活用しながら、最終的にはマルチのレベルでの貿易・投資の自由化につなげること、ということになりますが、そんなに理想的な方法があるのでしょうか。というのが「ハテナ博士」の悩むところです。

(伊藤元重『経済学的に考える』を参考にいたしました)

第149夜 - 尻尾が犬を振る?

ケインズの有名なレトリックです。左側に貯蓄、右側に投資*を置きますと、右側の投資がケインズ流の犬になり、左側の貯蓄が尻尾に当たります。ケインズ以前の古典的な考えでは、貯蓄があって初めて投資が行われると考えています。これをケインズは尻尾(貯蓄)が犬(投資)を振ることになると批判します。そうではなく犬が尻尾を振るのは、右側の投資であって、投資の結果左側の貯蓄が発生するのだ、と言うわけであります。何というケインズ独特のレトリックでありましょうか。納得々々。

*正確には貯蓄の側には税収、輸入も入ります。また投資の側には政府支出、輸出が入りますが、簡単化のため省略しました。

第150夜 - モラル・サイエンスとは

今夜は節目の第150夜になります。そこで基本に戻って、わたしたちの使うモラル・サイエンスとは何かを考え直してみましょう。普通モラル・サイエンスを道徳科学と訳し、そのように使われていますが、この場合の「モラル」とは「道徳」という狭い領域に限定してはならない、と「ハテナ博士」は思うのであります。日本語にし難い点はありますが、モラルとは「精神現象一般に関する」ものという意味を含みます。ナチュラル・サイエンス(natural science)に対してモラル・サイエンス(moral science)、つまり自然科学対精神科学と言うわけです。そしてケインズは言います。経済学は本質的に精神科学(モラル・サイエンス)であって、自然科学ではない。なぜならそれは洞観と価値判断とを用いるからだというのです。

なおモラル・サイエンスは古くから用いられていますが、いわば「哲学科」にあたります。そのなかに経済学も含まれているのです。因みに経済学が独立するのは1903年からでした。イギリスの経済学がすぐれて思想的な泉で満たされているのはこのような伝統に基づいていると「ハテナ博士」は心底評価するところであります。

(参考:伊藤邦武『ケインズの哲学』)

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