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前夜からの続き

第161夜から第165夜まで

第161夜 - ちえの歴史と、とげの歴史

先進性の経済と後進性の経済との関連を考えてみましょう。日本の幕末開港は、オールコック(幕末期のイギリスの外交官)をして、ヨーロッパ文明と日本文明のように互いに異質的なものが突然接触したために起こる沸騰作用、といわしめるほどの衝撃を受けました。この西洋の衝撃により、日本は後進国としての経済発展の始動に必要なさまざまな産業・教育などのノウハウを先進国から吸収し急速に近代国家の形成を見るようになります。これが「ちえ」の歴史と言われるものです。他方後進性の不経済といわれるものがあります。先進国の技術や資本を導入しても経済開発が進まないのはその例です。また先進国ナショナリズムともいうものが後進国に向かうこともあります。文化摩擦もありますね。これが「とげ」の歴史といわれるものです。

これに関係して日本の今置かれた状況を考えてみますと。「ハテナ」には、時代が下り坂だとすべての傾向が主観的になるが、現実が新しい時代へ向かって成長している時はすべての傾向が客観的になるものだ、ということを痛感します。明治維新や戦後の高度成長期には成長発展の神話は当然のことと客観視されていました。ところが現在のような下り坂になりますとあらゆる異見が出てこれだという決め手がありません。わたしはわたし、あなたはあなた、といった主観的な意見がはびこる訳ですね。

なお、歴史を「ちえ」と「とげ」の面に分けて見事に分析したのは関口尚志教授で、末尾の編著は名著だと感銘を受けました。

(中村勝己編『受容と変容』日本近代の経済と思想より)

第162夜 - 美人投票

どうもお話があちこち飛ぶようで一貫性がないとのお叱りを受けるかもしれません。だが、この千夜一夜物語は、敢えて話題を変えて作っています。同じテーマだとまたか、と言って飽きられてしまう。それよりもいろんな話題を処を変えて出題したほうが飽きられないと思ってそうしているのですが・・・。

さて今夜のお話は、ケインズの比喩で有名な美人コンクールです。もちろん経済に関係しています。すこし長くなりますが、引用してみます。

投資の専門家たちがおこなう行為は、投票者が百枚の写真のなかからもっとも美しい六人の顔を選びだし、その選択が投票者全員の平均的な好みにもっとも近かった者に賞金が与えられる、という新聞の美人コンクールにたとえることができるであろう。この場合、個々の投票者は、自分がもっとも美しいと思う顔を選ぶのではなくて、他の投票者の憧れにもっとも合致すると思う顔を選択しなければならず、しかも投票者は誰もがこうした観点から問題を捉えるのである。ここで問われているのは、自分の最善の判断に照らしてどの顔が真実もっとも美しいかではないし、また、平均的な意見がもっとも美しいと真に考える顔を選びだすということでさえない・・・・・・

これでケインズは何を言わんとしているのかがおわかりでしょう。投資家の行動は、平均的なフィクシャス(仮想)な本性に基づくことを明らかにするためにこの例を持ち出したのですね。

ところで「ハテナ」の仮想はあらぬ方へ飛んでいってしまうのです。アテネオリンピックのシンクロナイズドスィミングで日本はどうしても金メダルを取れない。金はロシアに決まっている、と。それは審査員が上の美人投票のようにロシアが最高点を取ると予想されるからそれに合致して採点するのではないか?と島国的な発想をしてしまう。良くない考えでしょうね。だって男子体操団体総合では大逆転の金メダルに輝いた!ウーム・・・。

第163夜 - 悪意なき欺瞞

よく自分はそんなつもりではなかった、自分は善意でやったつもりがこんな結果になってしまった、ということを経験したりされたりしますね。経済学の場合も、こういったことがよく起こります。ジョン・K・ガルブレイズはごく最近、そう2004年に『悪意なき欺瞞』という本を著しました。彼は1908年の生まれですからなんと96歳で新著を出版したことになります。ガルブレイスはこう切り出します。世の中には悪意のない合法的な欺瞞というものがある。そういう欺瞞を犯す人にはいささかの罪の意識も責任感も持っていない。経済学の世界にも、経済的な慣行のなかにもそれが存在する、として12の大項目にまとめ、その実例や考え方を述べています。真理は現実とはほとんど関わりないとして彼は、要するに信頼されやすいことが信頼されるのだと皮肉まじりに語るのです。例えば今日、資本主義という言葉の代わりに、「市場システム」という語が受け入れられています。確かに例えば金融資本主義といえば余りいいイメージではありませんね。資本家の居なくなった資本主義の代わりに、市場システムでは本来消費者が主権をもつはずだのに、全能の経営者の支配下にあるといえば、これも余り良い印象ではない、しかしこれがまかり通っている、これは欺瞞の一つだとガルブレイスは指摘するのです。

(参考:ジョン・K・ガルブレイス:『悪意なき欺瞞』のうち「消費者主権という欺瞞」を参考にしました)

第164夜 - GDPという欺瞞

前夜に続いてもう少しガルブレイスのお話しをしましょう。次の話はもう当たり前のこととして知られています。が、それを最も強く批判した人の一人がガルブレイスでした。その話というのはGDPの欺瞞というものです。つまりGDP(国内総生産)というものは、その中身を社会全体で考えようとはせず、それぞれの生産者が決めるものだ、そこに欺瞞がある、というのです。崇高な芸術や文学、宗教、科学に関わる業績が本当の人間社会の成熟度を示すのに、GDPは生産の物差しなのです。そこでガルブレイスは、
生産者が随意に決める生産額の集計であるGDPのみで社会の進歩を測ること―これもまた小さな欺瞞の一つである。
というのです。
                                  
(ガルブレイス:同上書より)

第165夜 - 労働のパラドックス

ガルブレイスはまたこんな皮肉もこめています。

「仕事が楽しい」とよく言われる。これは、ほとんど万人が共有する感覚だと思う人が少なくあるまい。一所懸命働く人は褒めたたえられる。しかし、称賛を口にするのは、褒められた人が味わったような苦労を免れた人、もしくは汗水たらすことを上手に回避できた人がほとんどである。
かくして私たちは、次のようなパラドックスに遭遇することになる。「労働」という言葉は、疲労、退屈、不適性に悩まされる人々の仕事と、義務感を伴わない面白くて仕方がない仕事の双方を、無差別に意味するのである。・・・・・・
「労働」には二つの意味がある。一つは、強制される働き。もう一つは、人もうらやむ威信と報酬と快楽の源泉としての働き。まったく違う二つの事柄に同じ言葉を充てるのが、欺瞞であることは言うまでもあるまい。

たしかに仕事を最も楽しんでいる人は高額の所得を得ていますね。羨ましいがこれは当然の」こととして受け入れられてますよね。一方貧しい人は、「労働は喜びである」という言説に対して疑問を付したケインズの言うとおりかもしれません。

(ガルブレイス:同上書、p.44〜45.より)

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