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前夜からの続き

第181夜から第185夜まで

第181夜 - Laissez- faire, laissez-passer

表題の文言をもって自由放任主義(レッセ・フェール、レッセ・パッセ)といわれています。この語源はふたたびフランスから。ルジャンドル(F. Legendre)は、1680年ごろ、フランスの大蔵大臣コルベール*から産業振興策の諮問をうけたとき、Laissez-nous-faire (われわれのなすがままにまかせなさい)と答えました。しかしこの言葉を書物のなかで最初に使ったのはボアギュベールで、laissez-faire la nature (自然のなすがままにまかせなさい)(1706年の『フランスの公開状』のなか)とあり、それはのちにグルネー(J.C.M. Vincent de Gournay, 1712-59)がlaissez-passer (行くがままにまかせなさい)を追加して

Laissez−faire, laissez−passer

となりました。そしてこれが重農主義の合い言葉となったのです。「・・・おお神よ、願わくば自由放任をこそ!自由放任をこそ!」ともてはやされたのでした。

*コルベール(J.B.Colbert(1619-83)はフランスの政治家で、ルイ14世の大蔵大臣でした。だが彼は重商主義者でありました。重商主義が自由放任を認めるのは変だと「ハテナ」はかねてから思っています。何故なら、重商主義は政府の干渉のもとに進められるからです(例えば輸入制限など)。コルベールが実際にこの自由放任によって政府が貿易に干渉しないことで経済的利益を享受するような考えや立場にあったとは思えないのです。

第182夜 -自由放任の終焉

一方ケインズは「自由放任の終焉」と題する有名な論文を書いています。それではケインズはなぜ「自由放任」を支持しなかったのでしょう。この理由はこの論文のなかでの次の名文を引用するのが一番でしょう。特に下線を引いたところにご注目ください。

・・・個々人が各自の経済活動において、永年の慣行によって公認された「自然的自由」を所有しているというのは本当ではない。持てる者、あるいは所得せる者に永続的な権利を授与する「契約」など存在しない。世界は、私的利益と社会的利益とがつねに一致するように、天上から統治されてはいない。世界は、実際問題として両者が一致するように、この地上で管理されているわけでもない。啓発された利己心が、つねに公益のために作用するというのは、経済学の諸原理から正しく演繹されたものではない。また、自己心が一般的に啓発されているというのも正しくない。自分自身の目的を促進すべく個々別々に行動している個々人は、あまりにも無知であるか、あるいはあまりにも無力であるために、そのような目的すら達成することができないというのが、頻繁に見受けられるところなのである。

(J.M. ケインズ 「自由放任の終焉」より ケインズ全集第9巻説得論集)

第183夜 - アダム・スミスの英知に学ぶ

ところがこの「自由放任の終焉」を書いたあのケインズが、最晩年の論文で自由放任論者であるアダム・スミスの英知を生かせ、と説くところが「ハテナ」には判らない。ケインズの最後の論文は、「アメリカの国際収支」と題して、『エコノミック・ジャーナル』誌の1946年6月号に掲載されました。そのなかで古典派経済学を古典的な薬が効くと述べ、それに「われわれが非常に疑わしい評価を与えてしまったということは、誤謬、腐敗・愚鈍に満ちた近代主義者の薬物が・・・われわれの体制のなかをいかに大量に流れているのかを示している」と指摘した後、次のような言葉を残しております。

アダム・スミスの英知を打破するのではなく補足するために、われわれが現代の経験と現代の分析から学んだものを用いようとする試みがある。

ケインズが亡くなったのは、1946年4月21日でしたから、この論文は死後掲載された最後の論文であります。遺作ともいえる論文でケインズは何故アダム・スミスに触れたのか?「ハテナ」はこだわります。一説にはケインズの変節という者もおります。そのためケインズの名誉のためにこの論文を差し止めようとさえした人もいます。もう一つの説は、ケインズの電光石火のごとき適応の早さ、鋭敏な感受性を物語るものとして受容します。

「ハテナ」自身は次のように考えています。ケインズは本来当面する短期の問題に対する処方箋に関心を抱いたのです。これに対して古典派は長期的な観点で調和を説きます(だからこそ古典は生き残る!)。だからケインズは長期的には古典派経済学を全て批判してはいないのです。だからアダム・スミスの英知を持ち出したのだと。また一方アダム・スミスも決して自由放任論者としてのみ見ることも間違っているのではないかと。ケインズはこうも言っています。

私は、いまにはじまったことではないが、現代の経済学者たちに是非つぎのことを思い起こさせたいと思う。それは、古典派の教義には偉大な意義をもついくつかの恒久的真理が含まれているということ、そしてわれわれはそれらの教義を、いまでは多くの限定をつけることなしには容認できない他の教義と結びつけて考えてしまうために、今日見落としがちだということ、である。これらの事態の中には、それを均衡に向かわせようとする深い底流が流れており、ひとはそれを自然の力と呼ぶこともできるし、また見えざる手と呼ぶことさえできるのである。

(ケインズ全集第27巻 「アメリカの国際収支」より)

第184夜 - ケインズ-スミスの自由放任観

前夜のようにケインズがアダム・スミスの英知に学べと説くかぎり、ケインズは必ずしもスミスを単なる自由放任者とは捉えていなかったことがわかります。事実、「自由放任の終焉」のなかで、”自由放任という言葉は、アダム・スミスやリカードウやマルサスの著作のなかには見当たらない”とさえ言っているのです。以前から「ハテナ」も、スミスが何故イギリスの航海条例を支持し賞賛さえしたのか、疑問に思っていました。当時航海条例といえば典型的な重商主義政策のひとつでありましたのに。ケインズもこう言っています。スミスはもちろん自由貿易主義であったが、航海条例・・・に対する彼の態度を見れば、彼が教条的な自由放任主義者ではなかったことがわかる、と。ケインズは自由放任をスミスよりむしろベンサムより発せられたもの、として同署のなかでベンサムの次のような言葉を引用しているのです。

 一般的な原則は、政府は何事もなしてはならないし、企ててもならないということである。このような場合の政府の守るべきモットーあるいは標語は、お静かにである。・・・・・・
(それは)私の日光をさえぎらないで下さいと言ったのと同じくらいに、穏当で理にかなったものである。
                                (ベンサム:『政治経済学綱要)

ケインズ 「自由放任の終焉」より)

第185夜 - 現代から古典を見ると

前に述べましたが(106夜)E.H.カーが歴史とは過去との対話であるとする見地からは、前夜のようにケインズ的にスミスを見ることも出来ましょう。ただ現代の眼でもって過去を眺めることには陥りやすい誤りがあります。例えば、スミスの時代には今日のような資本主義はなかった、というように。そのように当時の同時代人が考え描いていた経済像をその時代にそくして把握することも大切なのではないでしょうか。D.ウィンチという学者は、余りにも現代的な過剰な解釈が行われ過ぎていることに対し、警告を発しているのです。

たいていの経済学者および経済思想史家は、自由主義的資本家視角を採用するが、それは、スミスの体系を構成している比較的知られていない18世紀の観念に、19世紀の意味を与えるという形をとった。このやり方の第一歩は、ほとんど気づかれぬくらいありふれたものになっている。それは、スミスの「商業社会」をまったく短絡的に「資本主義」(キャピタリズム)にすぐ置き換えることにある。「資本主義」はスミスにとってまだ存在しなかったし、スミスがその言葉をつくる必要を認めなかったという単純な事実は、何の釈明も加えられず消え去る。

として、社会科学の”流線型の高速自動車道路的歴史は、まわりを取り囲んでいる歴史的田舎を素早く素通りして”現代に伝えるが、一方で、”あてもなく曲がりくねって走る18世紀の在来の道”をも探索して、二つの道(高速道路と田舎道)をつなぐことが必要とされるのである。

例によって巧みな比喩に魅せられますね。

(D.ウィンチ 『アダム・スミスの政治学』より)

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