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前夜からの続き

第186夜から第190夜まで

第186夜 - エコン族という経済学者

風変わりな名前と共に、奇妙な「エコン族」と名づけてエッセイを書いた人がいます。A・レイヨンフーヴッド(Axel Leiyonhufvud)というのがその人です。もっとも生まれはストックホルムですからこのような名前は当たり前かもしれません。それよりも、ある経済学者のグループを対象にした「エコン族の生態」という論文を書いたことで知られています。その内容はややこしいのですが、「ハテナ」にはどうやら特定の領域に閉じこもる派閥の「生態」を皮肉って書かれたものと見えます。その「エコン族」(the Econ tribe)とやらは、エコノミックス(経済学)をもじってつけられたのでしょう。その族はある領域に閉じこもってよそ者を受け付けません。隣のポルスシス族(Polscis)やソシオグス族(Sociogs)に対して軽蔑感を持つように育てられているのだそうであります。ポルスシスとは政治学あるいは政治経済学に属する人、ソシオグスは社会学に属する人の造語と「ハテナ」は推測します。
 さて、この「エコン族」は、族を守るため独特の階級や社会構造を持っています。そしてせっせと「モドゥルス」(modls)と呼ばれる一定の型の道具作りに励んでいます。「モドゥルス」もわたしなりの理解ではモデルのことだと思います。そしてこのモドゥルスを作らない者を排除してしまいます。だから外から見た旅行者の目には、とめどもないモドゥルス作りから生じる廃棄物で埋まってしまい、エコン族が作った部落は、かつての田園風景はみるかげもないと映ります。尊大で、創造的に対応することなど不可能に見えるのです。例えば、エコン族の一分派であるマス・エコン階級は、セイウチの骨をみごとにけずって精巧なモドゥルスを作っているのです。これは一般均衡論を確立したワルラスWalrasの綴りを一字変えてwalrusとすればセイウチの意味、著者の皮肉でしょう。そのような「エコン族」の将来はどうなるでしょう?歴史感覚を喪失し伝統を軽視したエコン族には民族の歴史を維持し教え伝えようとはしないから、現在に確信があるわけではなく、また将来の目的や方向も持っていないとしてこの短いエッセイを結んでいます。どこの世界にも人が集まると閥や身分が出来てしまうものですね。

 さて、この「エコン族」とは一体何者でしょう?

(A・レイヨンフーヴッド 『ケインズ経済学を超えて』第12章より)

第187夜 -マネタリストに関する寓話

有名なマネタリストといえばなんといってもミルトン・フリードマンでありましょう。フリードマンは、”インフレーションはいつでもどこでも貨幣的な現象である」という言葉を記してマネタリストの地位を不動のものにしました。つまり貨幣の量とインフレ率との間には固定した長期的関係が存在すると考えるのです。

ここから次のような何とも皮肉な二つの島の寓話が生まれます。
ただ一つ利用可能な財貨が10個のリンゴで、貨幣供給量が10枚の1ドル札であるという仮説的な島を考えてみましょう。もし、すべてのドル紙幣が、リンゴを購入するためにあるとするならば、リンゴ1つあたりの価格は1ドルになりますね。一方これと比較して、20枚の1ドル紙幣と10個のリンゴしかないような第二の島を仮定してみましょう。ここでは1個当りの価格は2ドルになりますよね。ここから利用可能な財貨(リンゴ)と比較して貨幣供給量が過剰である場合にはインフレーションが生ずることになります。もし第二の島で貨幣供給量を10ドルに制限するならばインフレは発生しなかったわけです。

さて、この寓話は何を意味しているのでしょうか。リンゴの生産がもし貨幣量供給によって増えて仮に40個になったとしますと、1個当りの価格は50セントになり、生産も増えて物価も上昇しない(この例では逆に下がる)ことが生じますね。

貨幣量が増えると物価が上がるという考えと、貨幣が増えることによって生産も賃金も増えることを期待する考えとの両方のうちどちらに軍配を挙げますか?

第188夜 - ケインズの孫たち

貨幣愛(Love of money)についてケインズは必ずしも好意を寄せていませんでした。貨幣は資本主義経済を駆動するエンジンではありますが、その貨幣をルールのもとに置くことが賢明で思慮深い運転技術と考えていました。「わが孫たちの経済的可能性」という論文において、ケインズは重大な戦争と顕著な人口の増加がないかぎり、経済問題は100年以内に解決されるであろうが、それまで貨幣愛は、それ自体いかに忌み嫌うべき不公正なものであろうとも、資本蓄積を促進する上できわめて有益であるがゆえに維持される、と見ています。ケインズが没したのは1946年でありますからほぼ50年が経ち孫たちに託した時代に入っています。あと50年で経済学がなくなるどころかますます重要性を深めていると「ハテナ」には感じられます。それは何よりも貨幣がケインズの言うとおり一国ではもちろんのことグローバルな広がりのなかで大きな影響を与えているからです。ケインズの次のアイロニーは残念ながらまだまだ生きているといわねばならないでしょう。

「われわれは少なくとも100年間、自分自身に対しても、どの人に対しても、公正なものが不正であり、不正なものが公正であると偽らなければならない。なぜなら不正なものは有用であり、公正なものは有用でないからである。強欲や利殖や用心は、今しばらくなおわれわれの神でなければならない。というのも、そのようなものだけが経済的必要というトンネルから、われわれを陽光の中へと導いてくれることができるからである」

(ケインズ 説得論集のなかの"Economic Possibilities for our Grandchildren" 宮崎訳より)

第189夜 - 犠牲の状況

先日あるテレビで高名な評論家がこんな例を引き出してジョークにしていました。今、10人の人間がボートに乗っており(例えば船が難破したときを思い浮かべてください)、定員は9人で嵐を乗り切るには1人が犠牲になるほかはない。でないとボートが沈んでしまい全員が死ぬという状況の設定です。では誰が犠牲になるか?評論家はこう訊ねます。まず英国人に対しは君はジェントルマンだろ、そうなら君が犠牲になるべきだ。そこで英国人は自らボートから身を投げ出し死にます。同様にドイツ人に対しては?ルールでそうなのだから君が犠牲になるべきだ。ドイツ人はルールに従って死にます。アメリカ人なら?君はヒーロになれる。そこでアメリカ人は海に飛び込みます。では日本人に対しては?皆がやっているよ、そこで日本人は身を投げ出す・・・。その評論家は「犠牲」の設定をお国柄にたとえてジョークにしたのです。
しかし、この問題は実は大変重い課題を背負っています。「犠牲の状況」に対してどう応えるか、という思想上の問題提起なのです。功利主義の立場なら、答えは簡単でとにかく誰かが犠牲になるほかはない、全体を救うためには誰か一人が犠牲となるべきだ、ということになります。問題はリベラリズムの立場、たとえばロールズ(有名な『正義論』を書いた人です)は、人間は自由に対する平等な権利をもっている、と考える立場の人々ですが、人間の権利を尊重することこそが個人にとって絶対的な義務であるから、誰かが死ねとは言えません。リベラリズムには答えられないか、もしくは「犠牲の状況」を議論から隠していると批判されるのです。
この「犠牲の状況」にリベラリズムはどう答えることができるのでしょうか。大変深刻な問題提起なのです。共和主義の立場にたつ人(例えばアメリカのような国)は、こう言うでありましょう。たとえばテロとの戦いという名目でイラクに兵士を送ります。これは、社会全体のもとでの生命、財産、自由の安全を確保するために兵士の命を犠牲にするという決断を下します。リベラリズムはこの状況に対してほとんど沈黙せざるをえないでしょう。しかしアメリカなどの共和主義者は「市民的美徳」という次元でこれに対処しようとしていると考えられます。共同社会は常に共同社会全体の安全や絆を確保するための「犠牲」を求めているのです。
ここでは単純化して功利主義、リベラリズム、共和主義という概念のもとに考えてみましたが、もちろんこういった類型化は正しくないでしょう。しかしこの例えのような「犠牲の状況」は、実は大変な思想上の問題を含んでいるのです。

(参考 佐伯啓思 『倫理としてのナショナリズム』)

第190夜 - 三つの社会哲学

思想を論ずるうえで、自由主義という言葉は欠かせない哲学です。けれども現代の思潮は、一口に自由主義といって済まされない複雑な社会となっています。これらを大きく三つの流れに整理してみましょう。

@ リバータリアニズム・・・・・・これは自由至上主義です。または市場経済中心主義、最小国家論とも言われます。そこでは何よりも個人の自由が発揮できる機会を重視するのです。この考えの持ち主は、ハイエクやノージックに代表されます。

A コミュニタリアニズム・・・・・・@に対して、個人は共同社会を常に背負っているのであり、その中での自由や権利を追求すべきであると云う考えです。共同社会を重視する思想で、それを他民族国家に当てはめますといわゆる共通の善を求めることが困難となり、文化的多元主義を生み出します。この代表的な論者は、サンデルやテイラーなどです。

B 修正されたリベラリズム・・・・・・画期的な思想上の問題提起はロールズの『正義論』でありましたが、前夜(189夜)でも触れましたように、さまざまな議論が闘わされて、今日のいわゆる自由主義は”修正された”自由主義となりました。リベラリズムが持っている価値の相対化、主観主義を修正しようとする動きです。このなかには、アマルティア・センにおける潜在能力の重視や、ギデンズのいわゆる「第三の道」などが入ります。

上は前夜での佐伯氏による、きわめて大まかな類型化ですが、この中には何故かいわゆるネオコンと呼ばれる思想が入っていませんね。ネオコンNEOCON,正式にはNeoconservatismです。著者はこれをはずして書名のような「倫理としてのナショナリズム」にしたかったのかもしれません。それはさておき、この三つの社会哲学の思潮を眺めながら現代のさまざまな動きを理解することが可能になり、総じてわたくしたちは”アフター・リベラリズム”として呼んで社会思想の理解の基礎を学ぶことが可能になるのではないか、と思われます。

(佐伯啓思 『倫理としてのナリョナリズム』より)

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